『かさおか』第53巻 第2号
すっぽり雪化粧の笠岡詰所月日撮影教祖年祭に向かって三年千日さあおたすけ祈る動くつなぐ年頭会議におけるお話し一人ひとりが一つひとつを一手一つに大教会長様始まったおたすけお願いカードも月毎にだんだん増えて月には万千枚を超え笠岡に繋がる立教年大教会年頭会議は月日午後時から大教会神殿で行われ役員部内教会長布教所長らが参集した先ず月日本部会議所における真柱様の年頭あいさつを拝聴引き続き大教会長様は積み重ねの年としての歩み方について懇切に話されたその後講堂で会食がもたれたあいさつの要旨は次の通り人の中に着実におたすけを願う人が増えてきたということを実感できました皆さん方が真剣に心一つに揃えておつとめくださった姿ではなかろうかと思います本当にご苦労さまでした積み重ねの年のつとめ方本年はその勢いでもって年目をしっかりとつとめたいと思います年目は年目の実践項目をしながら一歩前進の成人の歩みをすることに立教百七十七年明けましておめでとなりますうございますある会長さんからおたすけお願い昨年は教祖年祭に向かう三年千日カードのお陰でおぢばがえりする人と仕切っての年祭活動の一年目さあができた初席者ができたという喜びおたすけというスローガンのもと祈の声を聞きましたる動くつなぐという実践項目を掲げあるよふぼくが家人に何とか神様共にその徹底を図るべくつとめましたの話も聞いてもらいおぢばがえりもしお陰さまで千枚余りのお供えからてもらいたいということでこの人に何とか一歩前進してもらいたいという願いを込めておたすけお願いカードを書きましたカードの裏にはおぢばがえりとしてほしいことを書いて毎日一生懸命お願いしたところおぢばがえりするに当たって声を掛けたらおぢばがえりしてくれた回目には別席を勧めたら初席も運んでくれたということでしたそれが目的ではありませんがそういう動きに繋がってきたということは大変有難いことだと思いますしまた心や身体を動かしてつとめる姿を教祖にご覧いただいてそういう御守護という形で見せていただくのではなかろうかと思いますまた別のところでは元旦祭でおさづけの取り次ぎをお願いしたところ帰宅直後身上の家人におさづけを取り次いだら鮮やかに御守護を見せていただき普段家に居ない子孫がその姿を見ておぢばがえりに繋がったということも聞いて素晴らしい旬だと思いました特に教祖年祭の旬には少しでも親神様教祖にお喜びいただけるような心実行目標人のたすかりを願いましょうおたすけお願いカード集計枚平成年月日平成年月日累計枚遣い動きをすることによって何かしら教祖がお働きくださってそのような素晴らしい御守護もお見せくださるのだと改めて思いましたこの旬に動いてこそ教祖がお喜びくださって大きな御守護もくださるということをしっかり心において教会に繋がるよふぼく信者一人でも多くの人に声を掛けるようにおつとめいただきたい祈るさて成人目標さあおたすけこれは何も変わりませんそして祈る動くつなぐこれも変わりませんただ祈るの動きに対して年目は人のたすかりを願いましょうということでおたすけお願いカードを通してとにかく願うということを基本的につとめました年目同じように願うのですが今度は願うを行ない実働にするたすかりを願うだけではなくたす月毎のおさづけ回数としてこれが月よりけをする行ないに繋げようということです月月より月とだんだん増えてきたらいそういうことでたすかりを願いましょういということで月をちょっと少なめに設定しに加えて教会で毎月何回のおさづけをお取ましたり次ぎをさせていただきましょうと掲げて細これはそれぞれの教会に応じてすれば結構でかな実践項目が掲げられていますすが回数を競うわけではありませんから数がですから年目と別のことをするのではなく多ければいいというわけではありません年目のことをしながら年目のことを積み重おたすけお願いカードによって毎日一ねるということで年目は積み重ねの年と生懸命お願いをするその延長線上でこれ位置付けてつとめたいと思いますだけお願いするならせめておさづけを取り次毎月のおさづけ取り次ぎぎたい回で御守護いただけないなら回回数は大教会では特に決数を重ねてお願いしようという一人ひとりめていませんそれぞれののたすけ心の積み重ねの上でのおさづけ取り次ぎ一手一つを促される大教会長様教会で決めてこれを実行回数ということですしたら結構です皆さん方の教会に繋がるよふぼく信者一人ひ大教会の直轄では月とりの真実の心定めを毎月して実際に実働に移は私が数を決めたがせればありがたいと思います月からは毎月皆の心定それぞれの教会の実情に応じて毎月同じ回数めを持ち寄ってそれを直でも違う回数を心定めしても結構ですが会長轄の心定めとして月に何回おさづけを取り次げたと御礼申しあげ月はこれだけの心定めでつさんが勝手に決めるのではなくて教会に繋がるよふぼく信者の皆さんに言葉を掛けて皆さんの心定めの数をする方が一手一つということに繋がるだろうしまた教会に繋がるよふぼくとめますということを信者さんがそれに向かってより一層真剣に毎月直轄祭の祭文で奏上実働してくれると思いますするある教会ではおたすけお願いカードでお願いする中にどうしてもその人に助かっても確認してくださいいただけば結構ですらいたいということでわざわざ会長さんにでおたすけをお願いされた方もおられましたおさづけをよう取り次がないよふぼくや拝戴していない信者さんでしたらおさづけの取り教祖にたすけられた人がご恩報じしたいと教祖に申したところ人を救けるのやでと仰せられたそれでどうしたら人つなぐつ目のつなぐについては進んで声を掛けましょうに今度は加えて教えを学次ぎを人にお願いしてもそれも回というさんが救かりますかとお尋ねするとび信仰の楽しみを身に付けようことになります教祖は先ず家庭内において教理の勉強をするそういうことも含めて皆で心定めしておつとあんたの救かったことを人さんに真剣もちろん教祖伝や教典のような書物めいただければありがたい諭達にも最初に一手一つということが述べられていますが教会に繋がる者よふぼく信者すべての人が同じ思いで動くところに今回の諭達の思いが関わっていると思いますどうぞ皆さん方には自分がするだけではなくよふぼく信者にしっかりと声を掛けて共に話さして頂くのやでと仰せられ逸話篇ですから不思議な御守護をいただいた人は神様に助けていただいたありがたいということを人さんにお話ししただけでもこれもにをいがけですこれも件かしものかりものの理が十分に分かって毎日神様のお陰でこれだけ結構にありがたいを読むことも一つの方法でしょうが一番皆さん方にお願いしたいのは家の信仰の元一日これを子孫さんたちにお話しするあるいはそういうことについて家族で話し合いをするということそういうことをしていただければありがたいと思います最近特に高校に進学する人たちにお話しするのは中学校までは親の心通りの守護の中で子にしていただけるようにご丹精をお願いいたし嬉しいという心があればその喜びを人に伝どもは生かされているが歳高校からは銘ますえるだけでもこれも同じくにをいがけ自分の心通りなので自分のいんねんで生き動くですからパンフレットを持って天理教ですていかなければならない当然自分の足を踏んと声を掛けることだけがにをいがけではありませ張って大地に根を生やして自分がこれから続いて動く一日一つひのきしんにんどういう人生を歩んでいくかということも考えて今度は加えて毎月何件にをいがけにをいがけもひのきしんの一つですそれぞれができるように心定めしまたこれ進んでいかなければならない高校時代はちょも毎月祭文に入れてつとめてもいいと思いうどそういう時期なので大地に根をしっかりとこれもそれぞれの教会で決めて実践すればます生やすことが一番大事だ大地に根を生やす結構ですが会長さんが決めてしまうのではなくいずれにしてもそれぞれの教会で教会のやとは親が大地なのだから親の歩み方件でもいいので一人ひとりに声を掛けてりやすいように心定めの数を出しておつとめ親の心元を知ると親を知るということが根を生やすということになる元を知れば自分がどういう方向に進んでいけばいいのかが分かる元を知らなければ自分の行くべき道筋はたず決して分からないだからしっかりと親を温たずねなさい教会であれば信仰の元一日を温ねなさいという話をしますだんだん大きくなってしまってもう自分で勝手にどこか分からない大地に根を生やしてしまってからでは話をしてもなかなか聞き入れにくいいずれにしてもそういう機会を設けてお話しするそれが大事な旬なのですこの年目の成人目標はそこにありますから今年は子孫さんたちと話す旬だということを心において信仰の元一日親の信仰に対する思い信仰を通しての親の子どもに対する思いそういう一つひとつをしっかりと話をする機会旬にしていただければありがたいと思いますそしてそれ以外にはいろいろおぢばからの刊行物がありますのでそういうものも大いに利用しながら縦の伝道の御用をしっかりつとめたいと思います一人ひとりが一つひとつを一手一つにあとの細かい項目はこれを全部やれということではなくて実働に関わる一つひとつだということを皆さん方がそれぞれに確認しながらつとめていただきたいと思います昨年一年掛かっておたすけお願いカードは確かに増えてはきましたが徹底というところまでは行ききれていないと思います真柱様は年頭のごあいさつで昨年を反省して届かないと思ったら今からでも決して遅くはないさあ頑張ってつとめようと声を掛けてくださいました今からでも決して遅くはありません昨年徹底できなかったと思えば今年一年しっかりとつとめたなら万千枚が万万枚という形で枚数が増えるのではなくおたすけを願う人がどんどん増えてくるということが大事なことだと思いますどうぞその徹底が図れるように皆さん方にはしっかり心一つに揃えておつとめいただきたいと思います中にはうちの教会はうちの教会のやり方があるというようなこだわりもありましょうこうやって丹精しおたすけしていくというこだわりを持つことは大切ですしこだわりを捨てる必要は全くありませんしかしそれはそれとしてそれもしながらこれも確実にやってほしいということだけは申したいこだわりがあればあるほどプラスこれも合わせてつとめたならよりこだわりが生きますよということは申したい私たちは教祖年祭に向かって一手一つにつとめることによって神様からより大きな旬のお働きをお与えいただきますのでどうぞ心を揃えておつとめくださいますようにお願い申しあげますまた月から月に掛けて本部主催のようぼくの集いが開催されますこれも自分だけが行くのではなくよふぼく信者端にまで声を掛けてどこでもいいから行きやすい場所行きやすい日にち遠方の人にも先ず声を掛けできれば遠方であっても足を運んでそして参加してもらえるように声掛けをしていただきたいと思いますこれもたすけ心を遣う大きな糧になる内容ですのでそれも楽しみにしながら共に声を掛け合って一人でも多くの人に参加してもらえるように丹精をしていただきたいと思います今年一年別席ひのきしん団参また各部各会のいろんな行事がありますがそれら一つひとつもすべて年祭活動の一環としてつとめられる事柄ですので自分のできるところを精一杯つとめて今年一年年目に相応しい成人の歩みにしたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします以上要旨春季大祭講話御存命の教祖にお喜びいただこう大教会長様でまだご存命ですかと尋ねられる方がありますということは存命ですかという言葉は普段接しない方が生死の確認のために遣う言葉のような気がして教祖御存命という立教年大教会春季大祭は月日大教会長様祭主のもと役員部内教会長布教所長よふぼく信者ら多数の参拝のもと執り行われた大教会長様は神殿講話で教祖にお働きいただいてこその存命の理であることを順を追って話された要旨は次の通りと何か普段教祖に接していないあるいは教祖と縁遠くなってしまっているような気がします普段から教祖が居られるという感覚でいますから敢えて御存命と言われると却って何か違和感をすごく覚えてしまいます教祖が御身を隠されてもうすぐ年経ちますか教祖存命という言葉のニュアンスら当然私たちは教祖のお姿そのものを見たことはありませんから存命の教祖という表今日は春の大祭にちなんで教祖存命と現が出てきても致し方ありませんしまた教祖いうことについてお話ししたいと思いますを想像するとしてもなかなか難しい教祖存命ということの意味は十分に分かり例えば私の母なら生前の姿を見ていますかますが私はどうも存命という言葉の遣ら何年経ってもこんな母だったということがい方が余り好きではありません分かると思いますが残念ながら私たちは教昨年母が亡くなりましたがそれまで多くの祖の姿を直見たことはありません方が心配をしてくださいましたですからどうしても存命のという表現を近くの方はお母さんお元気ですかと尋しなければいけないのかも知れませんが敢えてねられますが普段接する機会がほとんどない言わなくても既に存命であるということを私方や昔お付き合いのあった方の中には元気たちはしっかり心においていかなければいけなかどうかではなくて居るかどうか生死が心配いそれが教祖だということを改めて今日はお話しできればと思います教祖存命の理教祖が月日のやしろとなられ親神様が入り込まれて直おたすけに掛かられたその当時の人にしてみれば親神様は天の神様教祖は地上の神様別のものではありませんが地上におわす神をやという感覚ですから親神様よりも教祖の方が神様だという何かそういう感覚があったろうと思います教祖にたすけていただき親神様の存在や教理を教えていただいた教祖によってすべてのことを聞かせていただいたので当然当時の人にしてみれば親神様は一般的な神さんで教祖が身近にすぐ側に居られる神様の姿でした教祖が神そのものだったので明治年教祖が御身をお隠しなされた直後は目の前の教祖が息を引き取ったという姿から当然亡くなった居なくなったもうこれで神様が私たちをたすけてくださることはない陽気ぐらしに導いてくれることはないという感覚でした教祖伝第十章に人は全く立って居る大地が砕け日月の光が消えてこの世が真っ暗になったように感じた飯降伊蔵を通してお指図を願うと子供可愛い故をやの命を二十五年先の命を縮めて今からたすけするのやでしっかり見て居よ今までとこれから先としっかり見て居よならないそのためには私たちがしっかりとおつとめをしてにをいがけおたすけの上に励まなければならないそうして一生懸命つとめる中に不思議なたすけが次と現われてくるて少しでも教祖を感じるためにおつとめをしっかりつとめにをいがけおたすけおさづけの取り次ぎにとしっかり励まなければならないと思いますこのふしぎなたすけこそ教祖が生きて働いて居られる証拠だということがより心に納ってりょうげん燎原に火を放つがごとくおたすけに邁進するご本部教祖殿でのご奉仕ご本部では教祖殿で生前同様おとお言葉があったという姿になったということです姿があるときと同じように毎日教祖のお接待このお諭しを聞いて姿をかくして後までも一列たすけのために存命のまゝおやさま今も御存命をしておられますこれについて中山もと奥様二代真柱様の娘お働き下さるのかそれならばと一同の教祖は年経とうとする現在姿は見えませさん前の真柱様のお姉さんがおやさまのお人は漸く安堵の胸を撫で下ろしたんが同じようにお働きくださっているというこはなし教祖の一日というものを書いておらさあくこれまで住んで居る何処へも行とですれますので紹介いたしますてはせんで何処へも行てはせんで日のこれにつきましては教祖の一日の御日課は朝勤のお出ましか道を見て思やんしてくれねばならん存命と言うであろう存命でありゃこそら始まります一日の時間の過ごされ方は一明日働きという明年中を通して一定ではなく朝勤と夕勤の時今も尚そしていつくまでも存命のまゝ元のやしきに留まり一列子供の成人を守護されて居る日に現われて来るふしぎなたすけこそ教祖が生きて働いて居ら影は見えぬけど働きの理が見えてあるこれは誰の言葉と思うやない二十年以前にかくれた者やでなれど日働いて居る案じる事要らんで勇んで掛かれば十分働く間が基準になります朝は朝勤三十分前にお目覚め頂くのが普通でございますが元旦祭の時にはお勤が午前五時から始まりますので午前四時にお目れる証拠である伝第十章明とあるように教祖はぢばに留まり世界だすけつまり私たちは教祖のお姿を拝することは覚め頂きまず御入浴になりますそしてお勤にお出まし頂けますよう心掛けさせて頂いの上にお働きくださっているという理教祖できませんが私たちが一生懸命つとめること存命ということを明らかにされましたによってにをいがけおたすけの上にお見せいておりますしかし普段は朝勤三十分前にお目覚めだからこそ教祖が御身をお隠しなされたからただく不思議な御守護こそが実は教祖のお働頂き次いでお化粧室へご案内させて頂きまにはどうでも教祖にお働きいただかなければきだということこれをしっかりと心においすと御洗面御髪上げなどをなさいますのでそのお手伝いをさせて頂きます次いでご休息室で朝のお茶を召し上がり再びご寝室へお戻り願うとお寝間着から御普段着にお着替え遊ばしそれから御殿にお出ましになりますこの時間は大体朝勤十分前位ですお出ましの際は閉まっていた襖が開く次いで午前中御殿にお出ましの間に春夏秋冬時間の頃合いを見計らってお居間へ御よ案内してお四つを差し上げますと召し上がって下さいます教祖殿合殿から参拝して正面が教祖の御殿左手御殿の左側がお居間お運びの時のお部屋次いで又御殿へお戻りになり午前十一時になりますとお昼食を差し上げますお昼食の時間だけが年中変わりございませんお朝食の時間は朝勤の時間の後お夕食は季節によって夕方に召し上がって頂けるように時間が変わりますお昼食を召し上がられましてからしばらくして御入浴の時間になりますと又お化粧室へ御案内しその御入浴中に御殿掃除をやさせて頂きます御入浴に引き続いてお八つをお居間で召し上がられますその後再三御殿へお戻りになります次いでお夕食それから夕勤後大体一時間から二時間の間にというのは旬によって世界映してみせるとおっしゃったのは又お祭り日によって時間が変わりますがそういうふうにしてお働き下さるのですねその一時間から二時間の間に御就床願いま中山もと著おやさまのおはなしすこのようにそこに居られるようにお身体がこれが教祖の御日常の主な日課でございまあるようにお着物も着ていただき御入浴もしすが教祖が御殿にお出ましになっておられていただきお布団にも入ってお休みいただくとる間お一人ポツンとお座りになっておられいうことでするわけではございませんごくごせんまいおそな御供を作る御洗米を御供えいたしました身近なところでのご奉仕はらその御洗米に息をかけて下さり又結大教会ではなかなかそこまでのことはでき婚式にもお立ち会い下さいますし御用場でませんが少なくとも教会名称には親神様だ講習会等が開かれます時にもお立ち会い下さけではなく教祖もお出張りお鎮まりくださっています真柱様のお運びがございます時にはいるという思いは日の中で心におく必要はご一緒に御殿にお座りになっておられますあると思います殊にいつも参拝に来られる大勢の信者さんの普段大教会においても献饌やお灯明をお下方つまり皆さま方が教祖に御挨拶申しげするときは親神様のものを教祖の直前を素上げられます時その御挨拶をお受け下さり通りして上げ下げするのではなくて一旦下段悩み事や痛み事など救けを求めて来られるまで降りてするようにしています方にはその救けを頂き易いようにして下これは祭儀式だからではなくてそこにさる教祖が居られるから教祖の直前を右往左往するつまり私共が参拝の後で心に浮かんだと失礼だと感ずるからですことや見せて頂くこと聞かして頂くことはお掃除のときはなかなかそうもいきませんすべて教祖の私共のお尋ねに対してのお返事し教祖のものを教祖の横から下げる分は別なのでございますねに何ともありませんが親神様のものを上げ下げ教祖の一日はこのように少しの間もお休みするときに教祖の直前を素通りするというのにならずにたすけ一条にお働き下さいますはこれは申し訳ないことです決して祭儀式だからではありません用意をされたところが思わずも熱いお湯になって身を隠された典第三章元の理以前の話しですが夏場になると朝のお掃除てしまったようですちょっと熱いけれども大と示されるいざなみのみこと様と同じお心持ちが朝づとめ一時間前の時から始まりますが掃丈夫だろうということでご用意が済んで自宅だったと拝察します除の準備をするためにはその前から起きなけれに帰ってみると子どもさんがお風呂で大火傷しばいけませんのでご自分がお休みになる前にて大変なことになったということがあったそう障子を全部開けて箒なども前晩から準備されるです方がおられましたそのことでお風呂をご用意された奥さんは私は障子を開けっ放しにしたら教祖が安大変申し訳なかったと姿が見えないか心してお休みになれないから朝になってかららと思っていたが正しく教祖は御存命でこ障子を開けて道具を用意して掃除してほしいうして本当にここに居てくださるということ夜はちゃんと障子を締めてほしいとお願いを改めてしみじみと分かってからは一生懸したこともありました命つとめているということを聞きましたニッコリお笑いになったそのお姿は一れつ子どもが自らの意志でおつとめをつとめた姿が陽気ぐらしの世界に近付く第一歩になったというをやの大きな喜びだったろうと思いますおつとめだけでは陽気ぐらしには立て替わらない現身を隠すことによっておさづけを授けより一層私たちのたすけ心を遣わすことによって陽気ぐらしの世界に近付くしかしおさづけを取り次いでも不思議も何も姿が見えないから居られないのではありませ目に見えないから居ないのではなくて目に見現われなかったら信仰に繋がってくる人もいなんもちろん常にジッとしておられるということでもありません常に私たちよふぼくと共に居てくださってさあおたすけというときにはちゃんとえなくても教祖が居られるということですそして教祖にお働きいただくためには私たち一人ひとりがしっかりとおつとめたすけ一条の上に運ぶことが大事だということですいわけでしょうお取り次ぎするおさづけの一つひとつに教祖がお働きくださり不思議自由の御守護を現わすことによってより親神様の御守護お働きお働きくださいますから常に居られるのと同じ思いで接することが大事だと申したいのです肌で感じる御存命の教祖教祖にお働きいただける年目に明治年におつとめが済んだときの教祖は元の理にたすけてやりたいという親心さえも分かってご恩報じの道を歩みたいという人が次と増えてくるそれが今日のお道の姿そしてこれからの本部の教祖殿でそうしていても目に見えない三度目の宿し込みをなされたがこのものも世界の姿になっていくのではないかと思いますものを御存命とはなかなか思いにくいに五分から生れ九十九年経つて四寸まで成人教祖年祭の旬は教祖が十分に働いてくださるわかに信じられないという方もおられましょうしたその時母親なるいざなみのみことは旬ですある方から聞いた話しですが教祖のお側にお仕えされる方が御入浴に当たってお風呂のごこれまでに成人すればいずれ五尺の人間改めてこの旬は三年千日と仕切ってしっになるであろうと仰せられにつこり笑うかりとをやに喜んでいただけるようにまたをやにお働きいただけるようにつとめ切るということが大切だということを皆共に心においてつとめたいと思います共にお願いカードで一生懸命たすかりを願いそして今年は回でも多くのおさづけのお取り次ぎ回でも多くの声掛けをして年目より一つ成人した年祭活動にしたいと思います年目勇んでつとめさせていただきましょうどうぞよろしくお願いいたします拍手こころの詩弥高山分教会教人藤本節子さん月あかり外燈あかり背に受けてかげ絵追ひつゝ朝参りかな笠岡に繋がる教友の方が選ばれ掲載されていましたので転載させて頂きますおめでとうございます養徳社発行陽気誌二月号道柳より転載今回の課題は心佳詠東悠分教会前会長夫人田林美智子さん人だすけ心ひとつで治まれり表紙写真上原喜三詰所掛員温故知新いきいきエピソード事歴はしのび詞承前斯くて昭和二十六年三十年の長き歳月に亘りて務め給いし長の理を譲りては祭事室神殿掛検定会委員布教部布教三課長などおやしきの務めに只一条に務め労き給い昭和三十七年大江大教会世話人山形教区修理人として只管に教祖ひながたの道を辿り人を教え導くと共に地方教会修理丹精に格勤み励み給いぬ更には昭和四十五年四月十八日教祖誕生祭の佳き日本部員に登げ用いられてはつとめ人衆として元つぢばのの重しき勤めに格勤み給い検定会委員審判会委員など老いの身も返りみず身も棚知らに努め励み労つき給いぬ更に想い廻せば三度に亘りて台湾伝道庁長として又梅華会親善訪問団団長として十指に余りて台湾の地に赴き斯く道の御教えを伝え教え導きて日台親善に尽力されし功績は多くの人の胸に深く感銘を与え今も尚尊く光り輝きて後の世かけて伝うべきいみじき御功績の一つにはありけり斯くては元つぢばの教会の勤めに寄る年波も忘れて労つき努め締まりてあり来しを如何なる枉事にや去りぬる年の霜月二十六日俄に御身損ない坐して只管に身を養い坐してありけるを医者の手術もその効だになく如何でか日を経るままに篤しれ坐して元の御姿に復り給わん日をこそ思い頼みてあり経しにこの月の二十二日午前五時三十五分と云うに御齢九十歳を生きの涯りと逝く水の返らぬ如く果敢なくも出直し坐しぬるは惜しみても尚余りあることになんありける故れ一世の終いの御祭仕え奉るこれの斎場に親族家族は更なり参来列なる諸人達と共に愁い歎かう中にも汝主の高く広き御遺徳の千千の一つを言挙げ讃えてしのび詞告し奉らくを御心を甘らに聞食せと白す以上であるしのび詞は出直し後直ぐの作文なので多岐に亘る困難はあるがその方のこの世でなされた主立つ功績印象深い人格などが一番反映されやすいものと言える特に親しかった人の手になるしのびはまことに得難いものであろう前史料部長上原繁雄大人三十年上原くにゑ刀自二十年上原郁雄大人二十年祭執り行う三代会長本部員上原繁雄大人三十年祭三代会長夫人本部婦人くにゑ刀自二十年祭四代会長上原郁雄大人二十年祭が月日午前時から大教会世話人島村廣義本部員斎主のもと大教会祖霊殿で家族親族大教会役員部内教会長布教所長よふぼく信者ら多数が参列し執り行われた年祭祭文奏上の後家族親族そして大教会役員部内教会長よふぼく信者の代表が参拝した当日来賓として芦津大教会長様代理玉島大教会長様ご夫妻が親族として髙知大教会長様夫人池田大教会長様前奥様大江大教会長様ご夫妻中紀大教会長様が参列された参拝順年祭斎員は次の通り斎主島村廣義先生指図方中村剛扈者中島誠治門脇元教賛者森本忠善佐藤真孝勇んで餅つきひのきしん詰所森本重吉さん夫妻海松ヶ岡分から特製うどんが振る舞われた本年月号掲載予定でしたが誌面の都合上割愛させて頂きました力強い掛け声と共に搗きあがった年祭祭文を奏上される島村廣義先生恒例の詰所餅つきひのきしんは昨年月日の準備に続き日に行われ部内教会長をはじめ有志少年会員など約人が参加した日曇り空の中午前時半から力強い掛け声と共に和気あいあいと行われ時過ぎには本部へのお供え用の升餅個正月用小餅などが搗きあがったかき日大教会から牡蛎島根分教会から蟹の差し入れがあり参加者で賞味日のひのきしん後は教会長講習会開催髙屋分髙屋分教会武内正美会長では月日の両日同教会で立教年教会長講習会を開催人が参加した同教会につながる教会長が一手一つに歩むため毎年開かれているもの武内同会長が年祭活動年目の本年教会の竜頭である教会長がまず先頭に立って新しい歩みを進めさせて頂こうとあいさつ引き続き松尾眞理子先生加古大教会長代務者が大教会長の身上を通して大教会長さんに何としても助かって頂きたいという思いから日参をはじめおさづけの取り次ぎなど人の助かりを願っての助けの輪が教会に広がっていった今はこれまでより一歩行動を外に踏み出す旬であり無駄のように思える働き種まきこそ親神様がご守護を持って来て下さるもとになると講話翌日は参加者を班に分けて同教会の年祭活動スローガンおさづけの取り次ぎ百万軒にをいがけ一教会で一年間に一名の修養科生の御守護を頂こう道の後継者の育成などについてねりあったその後大教会まで拍子木を入れて神名流しを行い新たな歩みを胸に閉講した春季大祭祭文これのの神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前に会長上原理一慎んで申し上げます親神様には一列の子供がかわいい上から天保九年十月教祖を月日の社とお定めになり教祖を通して万一切の真実を明かされると共に陽気ぐらし実現の為のひながたを五十年の長きに亘って親が直にお通り下さいました加えて明治二十年一月私達一列の子供の成人を促す上から二十五年先の定命を縮めて教祖のお姿をお隠しになりひながたを通りやすいようにとつとめとさづけをお渡し下さいました事は誠に有難く勿体ない極みでございます真実の親心に触れた先輩先生方の真実に導かれこの道にお引き寄せ頂きました私共は教祖百三十年祭の旬の理も得て日は報恩感謝の心一杯に朝に夕に御礼申し上げつつ自らの助け心をより高めるべくたすけ一条の御用の上に勤め励ませて頂いておりますその中にも今月二十六日は教祖が世界ろくぢに踏み均しに出られた尊い日に当たりおぢばでは春の大祭が執り行われますので当教会に於きましても只今からおつとめ奉仕人一同始まりた理と納まりた理に込められた親の思いを思案し心に修めつつ明るく陽気に勇んで坐りづとめてをどりをつとめて春の大祭を執り行わせて頂きます御前には今日の日を大切と寒さ厳しき中も厭いませず寄り集いました道の子供達が二万五千七百九十六枚のおたすけお願いカードと共により一層のたすけ心で参拝する真実の状をご覧下さいまして親神様にもお勇み下さいますようお願い申し上げますさて本年は教祖百三十年祭に向けて三年千日と仕切っての年祭活動二年目でございます笠岡では二年目の成人目標として一年目の上に積み重ねの年と位置付けたすけを願うからたすけの実働へと一歩前進させて頂きます祈るの実践項目ではそれぞれの教会で月毎のおさづけの取り次ぎ回数を心定めして実践動くでは同じくにをいがけ件数を心定めして実践つなぐでは教えを学び信仰の楽しみを身に付けるべく家庭内で信仰の語り合い等をさせて頂きます加えて本部主催で三月から六月にかけて実施されるようぼくの集いに全よふぼく信者の参加を目指して教会長よふぼく信者お互いが声を掛け合って参加させて頂く所存でございます何卒親神様には旬に与わる御用を御恩報じの手だてとして真実一杯に努める皆の誠の心をお受け取り下さいまして万たすけの上に更なる自由の御守護を賜り一人ひとりのたすけ心が大きくなり人から人へと伸び広がって御恩報じを願う人が弥増してお待ち望み下さるおつとめ奉仕人の増員が果たせますよう御守護お導きの程を一同と共に慎んでお願い申し上げます神事部春季霊祭に伴なう合祀について月日午前時半より阪本末子姉おつとめ奉仕人西村道榮姉瑞雲その他教会長配偶者よふぼく信者等で合祀を願い出られる場合月日までに神事部長へ連絡してください詰所掛教祖誕生祭詰所受け入れひのきしん期間割当月日木昼食日土昼食西福山髙屋島根上府ブロック各名計名少年会鼓笛合宿日時月日日月日火午前時係員集合午後時受付午後時半開始参加御供円お米合おつとめまなび総会期日月日火雅鶯会雅楽勉強会日時月日日午前時受付時半開講式講習午後時半閉講会場大教会対象初心者初級者少年会員一般内容初心者は雅楽の基礎から勉強をまた初級者は平調の越殿楽が合奏できるよう勉強します講師大教会雅楽奉仕者参加費円申し込み月日までに大教会に申し込み楽器は各自持参ですが都合がつかない人はご相談に応じます内容字数寄稿先原原稿稿募募集集小随筆教会布教所の独自の活動の紹介俳句和歌川柳教会行事開催後の報告記事等字前後字字題名所属教会名氏名を明記して下さい俳句等は一句からでも結構です下記大教会内編集掛宛ドシドシご寄稿下さい郵便岡山県メール尚原稿はお返し致しませんので予めご了承下さい立教百七十七年春季大祭祭典役割表祭主大教会長様賛者中村道德扈者岡﨑真一門脇元教横山逸郎指図方岡本久善講話大教会長様三月講話三島渉区分役割地方おつとめてをどり笛ちゃんぽん拍子木太鼓すりがね小鼓琴三味線胡弓坐り勤前半後半吉岡壽佐藤道孝中村邦義笹尾正治三島渉今川昌彦中村道德山野弘実武内清明大教会長様中村剛岡﨑和夫岡本久善岡﨑真一門脇元教上原繁道上原志郎田中隆之大教会奥様武内正美岡﨑豊子田中ますみ内海安子笹尾一美門脇郁子谷内美知子横山小智榮杉原博之吉岡誠一郎虫明立生森本忠平横山逸郎佐藤真孝吉岡誠一郎高木昭祥田林久嗣中島誠治岡﨑輝彦淺野明教内海史郎上原浩渡邉隆夫今川昌彦赤木素志森本忠善虫明好美佐藤香苗門脇加津今川佐智子三島照美中村初美上原順子森本冨美子高木孝子大教会だより教人資格講習会修了者終講稲倉浅野壽賀子稲倉迫田勝子月日は忘れもしない阪神淡路大震災の日年目私は時頃早朝に震災犠牲者の慰霊と鎮魂の行われた神戸三宮の東遊園地公園に行く毎年この日は亡くなられた方の慰霊に行く教会にじっとしていられない気持ちになるその場所は今年も出来事に似合わないあっけらかんとした昼前の明るい陽射しに包まれている竹灯籠竹を斜めに切ってその中にろうそくの灯りが点いている祈愛心と偲ぶ言葉や祈りの言葉が書かれている人は歩きまた立ち止まり合掌している人も唯話し声はほとんどない報道陣かな大きなカメラを持っている台以上の大型バスが停まっているどこから来たんだろう私は唯歩き回る何も考えていない頭の中は空白と思う唯無性に歩き回る亡くなった方の中に私や家族もいたのかもしれないな震災から生まれたきずな支えあう心を次世代に引き継がなくてはならない分程の空白のときは過ぎて黙と教会に帰る神前で深く祈るこれからもその日はじっとしていられないだろうひ