
『かさおか』第49巻 第2号
初代の心にかえり信仰の喜びを深めよう伝えよう広げよう一持ち場立場で日理作り一家族揃って教会参拝一一日一件にをいがけ年頭会議における大教会長様ごあいさついかということを少し申して今日の新年の挨拶としたいと日に努力を重ね思います喜びの輪を広げよう創立記念祭の位置付けとその大目標来年に控えた大教会創立百二十周年記念祭に向改めて心に置いていただきたいのはこの創かって三年千日と仕切って成人の歩みをしてい立百二十周年の歩みというものは教祖百三十年るその一年目として昨年は一年それぞれ精一祭に向かっての成人の歩みの途中の山場とし杯におつとめくださいましたことを心より御礼申ての歩みですしあげます教祖百三十年祭が大きな目標であって大今年は二年目ですがどういう思いで成人の歩教会創立百二十周年はその中間の大きな山場みをすればよいか親神様教祖真柱様にお喜びとしての位置付けでもってこの三年千日を歩んいただける一年になるためにはどう歩んだらよでいますその百三十年祭に向かっては教祖百三十年祭のときにはそれぞれの教会で教祖百二十年祭のときより一人でも二人でもおつとめ奉仕人を増やそうという目標を掲げて歩いている最中ですですから方針が変わったその目的が無くなったそれとは全く別の形で動いているということではなくておつとめ奉仕人の増員を大前提としてのこの創立百二十周年の歩みです二年目を迎えるに当たって改めてそのことを心に置いていただきたいこの三年千日の意義ではこの百二十周年の歩みは何かと言えば私は教祖百三十年祭に向かって成人するための言わば基礎体力作りだと思います高齢の登山家三浦雄一郎さんは大きな山に登っていくために日トレーニングを欠かさないそれがあるからこそ山に登っていけるのです百三十年祭により大きな成人の歩みを進めていくためには歩むべき足下がフラフラだったり弱かったり体力がなかったらそれは百三十年祭という大きな山場に向かって登っていけないですから言わば基礎体力作りが私はこの百二十周年に向かっての歩みでありまたそこにその意味合いがあると思うのです基礎体力作りに必要なことということは何が大切かと言えば日の歩みが大切だということですそのために百三十年祭に向かって何か一つ心定めをしてそれを百三十年祭まで毎日コツコツ十年間やり続けていこうではないかということをもう昨年一昨年から申してきているわけですそれは何でもいい親神様教祖ありがとうございますという心でつとめることこれを今日一日の心定めとしてつとめる理作りとしてつとめるというものを何か一つ心定めしてそれをつとめてほしいつまりこの日の理にしていくところに実は大きな基礎体力作りがあるということなのです百三十年祭だけパッと頑張ればいいというのではありません百三十年祭という大きな山を越えていくためにはそこに向かって今緩やかなときにこそ体力を付けていかないと本当の意味でのその大きな山を越えられないですからこの大教会の創立に向かっての歩みは緩やかな歩みかもしれませんしかし確実にきちっと歩いていく日の積み重ねを歩いていくということが大事だということです一つ目の項目持ち場立場で日理作りがいかに大事かということですこれは百三十年祭への理作りの延長線上での話ですから百二十周年に向かっても百三十年祭に向かっても同じく続けていく必要がありますそのことを皆さん方には先ず心に置いていただきたい初代の心にかえるための努力また初代の心にかえりということが大前提にありますが無い命をたすけていただいた初代の人たちは今日生きているはぁ今日も元気や今日も体を動かせてもらえるはぁ今日もご飯食べさせていただく日が喜び感謝一杯だったのではないでしょうかだからこそご恩報じとしてひのきしんもし教会の御用もし御供もしそしてもちろん人だすけの理にも歩むことができた日の喜び感謝の気持ちがふつふつと心の中にあったからこそそういう歩みに繋がっていったのではないでしょうか大病を患った人ならはぁ本当にそうやったなたすけていただいた元一日があるなぁといって思い返すことができますそういう不思議なご守護いただいた人なら思い出すこともできるでしょうからはぁ忘れておったなまたこれからほんなら本当に日喜ぼうという心に気づくことができるかもしれませんしかし代が重なってくるとあるいは中には大きな身上も事情もなくて何不自由ないとまではいかなくともそれなりに人並みに暮らしてきた道筋があるわけでそうしたときに日が喜び感謝一杯になれるかあるいは初代の心に振り返ることができるかと考えてみても想像はできてもなかなかその初代のときの喜び感謝の気持ちというのは私たち代を重ねてきた人間にとってみれば解りにくいというのが正直なところではないでしょうかややとすると動もすると形の信仰になってしまうひのきしんさえしておけばいい教会の御用さえしておけばいいおつくしさえしておけばいいややという形に動もするとなってしまうだから教会の雑用をしていると何か一日御用が済んでしまったあぁ今日も御用は済んだなになってしまう御用は済んだから良かったという安堵感は得ても喜び感謝一杯の中での御用になっていたかどうか改めて考えてみてもしそうでないとするならこれは反省しなければならないところではないかと思うのですとするなら初代の心にかえるには努力をして日喜ぶ心に立て替えていかなければならないのではないかと思います喜び感謝の心がないからできないとかしないではなくないならばなおさらそういう初代の心喜び感謝の心でひのきしんし喜び感謝の心で教会の御用をし喜び感謝の心で御供をしそしてにをいがけおたすけを喜び感謝の心でつとめるに近づく努力が必要ですそういう心があってできればそれでよいのですがやってもなかなかそうならないならそこに近づく努力はしなければならないと思いますその努力に日の理作りの意味があるということです心定めしたからすればよいしなければならないではなく先ず理作りとして喜び感謝親神様教祖に御礼を申しあげるの心を置いてからさせていただくということが大事だということです皆さん方を始めそれぞれの教会に繋がるよふぼく信者の皆さんもどうぞ些細なことほんの小さなことで構いませんから日の理作りというものを心に置いてつとめていただきたいと思います二年目今年の重点項目皆さん方いろいろな人と話をしている中に三年千日一年目の昨年はどちらかと言うと日の理作りということに重きを置いてつとめていただいた感があるという気がしましたそれでは今年は二つ目の事なのかなという思いもしますが考えてみればこれは順序です実践項目の順序という言い方はおかしいかもしれませんが成り立ちの順序からいけば当然そうなっていきます信仰の喜びを先ず自らが深めることによってその喜びを子どもに周りに伝えていく今度は広がりになっていくわけですから順序にしたつもりはありませんが知らず識らずに順序という一つの姿になってくるものかなと思うのですかと言って一年目は持ち場立場二年目は家族揃って三年目は一日一件ということではなくこれはもちろん三年間通してそれぞれをしていただくことに何も間違いはありませんどれかをすればよいということではなくもちろん三つともするのですが一つひとつに重きを置いてするなら一つの順序というものは生まれてくるかもしれないと思いますですからもちろん三つとも心に置いてつとめますがその中の二つ目の項目家族揃って教会参拝ということを重点に置いて今年一年成人の歩みをしたいと思いますこれにつきましては真柱様の年頭のおことばまた昨年の秋の大祭のおことばの中で家族揃って教会参拝ということの意味合いについてその大切さについて触れておられますが家族の団欒は銘の心一つで味わえるものだと思うのでありますにもかかわらずそのための心遣いを知らないがゆえに陽気ぐらしとはほど遠い生き方をしている人が世間には大勢いるのでありますそれだけに私たち自身が互いに心を合わせたすけ合う家族の姿をつくり出し周囲へ映していく努力が求められている秋季大祭講話というふうに仰いました家族の団欒の姿家族お互いが夫婦そして親子家族みんなが本当に道のよふぼくとしてよふぼく家庭としてたすけ合うその姿が世の中に映っていくということがお道の一つの大きなおたすけになるそのためには私たちがそういう姿をつくり出す努力そしてそれを周りに映していく努力が今求められていると仰ったわけです初代二代の頃にはそういうことを考えなくても知らず識らずにできたのでしょうが代を重ねた私たちは何もなくてそういうことはできないわけで努力してそういう姿をつくりあげていかなければならないということがあるのではないかと改めて思います世上の姿を見ると今正しく家族の団欒どこいがろか家族同士が啀み合うという姿が拡がりつつあるそれと同時に犯罪もより非情さを増し混乱を増してきているというのも事実でしょうとするなら一番肝心要の家族の団欒を世に映していくことが大きなたすけに繋がりこれこそが本当の陽気ぐらしの根源だということを知らしめていく大きなにをいがけになってくると思われますまたこのよのぢいとてんとをかたどりてふうふをこしらへきたるでなこれハこのよのはじめだしつまり夫婦としてお互いたすけ合い拝み合い喜ばし合うその夫婦の姿がこの世の始まりの元つまり陽気ぐらしの元だということでしょう先ず肝心要の会長さん夫婦布教所長さん夫婦それぞれの夫婦がたすけ合う姿そしてその理を子どもに映して今度は親子共にたすけ合う姿それをまた拡げていくということが陽気ぐらしを早めていくのです教理の上から考えてみてもこの家族団欒ということがおたすけにをいがけの大きな元一番中心になると言っても過言ではありませんいいにをいをかけていく元は家族にあると言えるわけでそこを心に置いていただいて少しでもいいにをいをかけていくためには自分だけが信仰すればよいのではなく自分の信仰を先ず家族に伝え家族共にあぁ良かったなぁ今日も結構やったありがたかったなぁ親神様教祖祖霊様に御礼申しあげさせていただこうという姿を今年一年それこそよふぼく信者の端までつくり上げていこうそれを以てまた来年その姿を今度は一日一件により強めていくそのことによって体力ができて教祖百三十年祭に向かっての大きな力となり教祖百三十年祭のときより大きな成人の姿というものをご守護いただけるし間違いなくおつとめ奉仕人が一人どころか二人三人一交替もできなかったものがそれこそ二交替三交替という大きな力になってくるのではなかろうかと思います今こそたすけが必要な時代今お道は正直勢いが下降気味です世上もなかなかいろんな面で難しくにをいがけおたすけもおつくし等も難しくなっていますがむしろ今こそが本当に大きなたすけが必要な時代なのです至らぬ私ではございますが百三十年祭に向かっての思いだけは倒すことなく勇んで少しでも親神様教祖に喜んでいただけるような姿になりたいと思っておりますどうぞ皆さん方にも先ずとりあえず百二十周年記念祭に向かって勇んでおつとめいただきますと同時にまたその勢いでもって百三十年祭に大きな成人の姿をご守護いただけるように共に精一杯つとめさせていただきますようよろしくお願い申しあげます以上要約春季大祭講話めですその理をもって世界一れつをたすけあげると仰い元の理をよく心に修め布教力の向上に努めよう世話人島村廣義先生ます当時おつとめをつとめると政府官憲の迫害干渉厳しく教祖に御苦労をお掛けするから初代真柱様を始め当時の先生方がをやを思う気遣春の大祭はどういうところでつとめられていう心から仰せ通りになかなかおつとめをつとめるものかということはよくそれぞれご承知のこる決断が下されなかったとですが明治二十年陰暦正月二十六日教祖が諄とつとめをつとめること教祖のお急き込お姿をお隠しになったことにその元があるわけみこれが身上を台にして厳しく仕込まれ急きです込まれる親心に決心をもって教祖の仰せ通りにその理由は子ども可愛い一条の親心立教のおつとめをしたその結果がお姿を隠されるとい元一日世界一れつをたすけるために天降ったとうことに繋がっていきます宣言されましたがこの子ども可愛い一条の親心姿を隠されたということを思うときに教祖の一日も早く世界一れつの子どもをたすけあげ御身を気遣う当時の先生方のお心を教祖は誰たいというこの成人を急き込まれる親心からに気遣うことなく何の気兼ねもなく教え通りにおお姿を隠しそして存命の理をもって働かれるよつとめができるように自らの姿をお隠しになっうになったこのことが原因ですたそして存命の理存命のお働きをもって積教祖は五十年に亘ってひながたを示され世極的なたすけ一条の道たすけの道の発動をされ界一れつをたすけるための手立てとしておつとめたと私はこのように受け止めていますを教えられその完修を急き込まれましたお姿を隠されてから広く一般におさづけの理このつとめはどういうおつとめかと申しますを渡されるようになりましたと親神様が無い人間無い世界をつくられたときまた教会本部の設立をお許しになりそれをのお働きの理を手振りに現わしてつとめるおつともって土地処にも教会名称の理を許されるようになりましたこの教会名称もおつとめをつとめるという心定めの上に許されたものですたすけ一条の道として教祖はこのつとめとさづけをもってたすけあげる道筋を立てられました元の理十全の守護が信仰の根本このおつとめの理をよく解らせようとして教えられた元初まりのお話親神様の十全の守護このことについて今一度ここでお互いに思案したいと私はこのように思いますおつとめの理がよく解るためにもこの元の理のお話元初まりのお話で教えられることそして親神様の十全の守護ということをしっかり心に修めるということが何よりも大切なことだと思うからですたすけ一条の道を進めるこのおたすけの唯一の拠り所これがこの親神様のご守護ですお互いに入信の元一日身上事情をたすけられたときのことを振り返ってみますと誰しもが一番先に耳にするのがかしものかりものの御教理ですおふでさきにもたんくとなに事にてもこのよふわ神のからだやしやんしてみよ三にんけんハみなく神のかしものやなんとをもふてつこているやら三めへくのみのうちよりのかりものをしらずにいてハなにもわからん三とお教えくださいます特にたんくとなに事にてもこのよふわ神のからだやしやんしてみよ三このお歌は全く同じお歌がおふでさきの中に二度出てきます世の中のものすべては親神様のつくられたものです全宇宙は親神様のお身体です親神様からこの身上を貸していただいてそして天地抱き合わせの親神様の懐で私たちは親神様のご守護をいただいて生かされています私たちの生かされている一つの目的は陽気ぐらし陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思し召す親神様のお心これにしっかり添うということが私たちの生きる目的です親神様からお借りしているこの身体このかしものかりものということが解らなければすべてのこと何もかも解るはずはないと仰せになります裏返して申せばこのかしものかりものの御教理が心に心底修まればすべてのことが見えてくる親神様のご守護の世界が見えてくると教えられますそういうところでこの親神様のご守護十全の守護をしっかり心に修めることこれが私たちの信仰の根本だと思いますここからおたすけということもまた自らの成人ということも始まりますくにとこたちのみこと様の御守護そういう上でいろいろと思案しますが先ずは十全の守護の中でもこのくにとこたちのみこと様をもたりのみこと様この神名をもって現わされる御守護はこれは月日の理を表わす神名でしかもこれは対を為していろいろと心に修めなければならないと思います月日と表わされるくにとこたちのみこと様をもたりのみこと様これは親神様そのものの呼称です一番根本的な守護の理を表わされたと思います天にては月様と現われ給い人間身の内の眼うるおい世界では水の御守護の理と仰いますお月さんが満ち欠けするということここから暦が成り立ちますがまたこのお月さんの働きというのは潮の満ち引きにも大きな関係がありますまた人間身の内では女性の生理もそのお働きの関係だと悟るのです人間身の内の眼うるおいと仰いますが赤ちゃんが母親の胎内に宿り最初の一月目で眼が形作られます人間の一生は眼から始まりますこのことは教祖の逸話の中で一七天が台というお話の中にこの世の台は天が台天のしんは月日なり人の身上のしんは目身の内のしん我せいすいせいがんが心の清水清眼というとお聞かせいただきます神経の系統全般これが眼という言葉によって強調されていると悟るのですが神経系統全般だと理性というものをこの眼というお言葉の中からいろいろと思案しますくにとこたちのみこと様のお働きは水のお働きですがをもたりのみこと様と深い関係がありますをもたりのみこと様と二つ一つに考えると申しましたが後でお話しする熱をコントロールするのも水のお働きです眼の身上をいただいたときにいろいろな悟り方をしますが世界を結構に見られるという眼のお働きこれをいろいろと考えてみましょうくにとこたちのみこと様は方位で表わすかぐらづとめの方位を考えると北の方に位置していますね北ということを十二支では子というね言葉でその方位を表しますが子というのはまた時刻では夜の十二時午前零時を意味します真夜中ということになりますがこれが一日のね始まりですいろいろ願い事をするときに子の刻詣りというようなことを世間でも言います教祖のお話しを記したこふき本という本がありますが桝井本明治十六年本神の古記という本の中に此世と云うは夜から世ふ照らしなさる月様が先はじめ夜から始まりた此の理をもって此の世と云うというふうに書かれています夜の御守護ということに悟るのですがそういうことから言うと私たち自身の信仰の上からこのくにとこたちのみこと様のお働きを御守護いただこうとすると人の知らない人の見ていないところでしっかり陰徳を積む良いことをさせてもらうことが結構をお見せいただく要点だと悟るのですまた夜は夜露を下げることで万物に隔てなく潤いを持たせ子どもも夜飲んだお乳で育つとよく世間でも申します隠れたところで慈悲の心を持って真実を尽くし見えないところで結構な心遣いをするこれが眼の御守護をいただく一つの精神定めになると私はこのようにも悟るのです水は方円の器に従うという言葉もありますが低い心で通るということが大切です私の祖父島村国次郎は普通の人と違ってこうずい神水のさづけというおさづけの理をいただいておりました御本席様から初めて神水のさづけを頂戴されたのは明治二十年五月六日喜多治郎吉先生で喜多先生の身上願に対してさあくこれまで長退屈であったやろさあくこれよりたすけのため水を授けようさあくしいかり受け取れさあ受け取れとおさしづがありました神水のさづけが初めてのこととて当時の先生方はどういうふうにしたらよいか解らず押して水の訳に付願と伺うとさあく授けたのは心の理に与えたるのやでたとえ途中にても泥水でも身の悪い者あれば先に三口飲んで後飲ましてやれというお言葉が下がりました道中身上に悩み苦しんでいる人に出会ったせいすいら清水がなかったら泥水でも構わないからそれを掬い上げ先に三口飲んでからそれを飲ませてやれと仰せになっています続いて押して水のおさづけの理由を尋ねと伺うとさあくこの水というは人間元初まりの時三尺まで水中住居この清水を与える理又三口飲むは三日三夜に宿し込みたこの理よって与えるとお言葉が下がりました元の理の心元の理のお話がしっかり本当に心に修まったならば御守護いただける元の理によっておたすけいただけるというこつぶさとを具に教えられたお言葉であるようにも思います特に水ということについてはみづとかみとはおなじことこゝろのよごれをあらひきる五下り目と教えられますしまた水に喩えていろいろと教えられることを思案するとき本当にこのくにとこたちのみこと様のお働きこれを先ずはしっかりお互いに心に修めるこれが大切ですをもたりのみこと様の御守護続いてをもたりのみこと様ですが天にては日様人間身の内のぬくみ世界では火の守護の理と仰いますが体温を三十六度五分に保つということこれはこのをもたりのみこと様のお働きです先ほど一ヶ月目に眼が出来ると申しましたが二月目には心臓循環器系統の機能がお腹の赤ちゃんの中で出来てくると聞き及びます心臓というのは血液を全身に送るポンプの役割をするところで循環器のお働きですこのをもたりのみこと様ということで熱というのは一つのエネルギーという言葉にも置き換えられると思いますが熱エネルギーというような観点からいろいろと思案できます熱はどうしたら出てくるのか燃やすものがあり酸素があってそういうものが整わないと燃えませんこれも元の理のお話またかぐらづとめの位置を考えますと飲み食い出入りのくもよみのみこと様燃やす材料と呼吸器系統かしこねのみこと様燃やすために補給する酸素これがをもたりのみこと様の尻尾にちゃんと繋がっています循環器の系統のお働きをするその一体化している姿ですまたもう一つをふとのべのみこと様人間の成長もこの一環の姿の中に結び込まれをもたりのみこと様の尻尾が繋がれていますが循環器消化器呼吸器系統これが一体化して身体の熱エネルギーを司られ全部一体一つのお働きをもって育てられるということがよく解りますこのことを思うと熱ということどんどん燃やして何ぼでも熱上がったらよいというのではこれも大変で四十度にもなれば人間は正常な状態ではおれませんがこのコントロールをされるのがくにとこたちのみこと様水のお働きで理性をもって知性をもってこのをもたりのみこと様のお働きをコントロールされるぬくみも熱を出すことも三十六度五分に保てるというのもくにとこたちのみこと様のお働きあってですこの月様日様の両神が親神様天理王命様そのものです後はみな道具だと仰います今日は教理勉強会をしているわけではありませんがこのようにくにとこたちのみこと様をもたりのみこと様十全の守護の中でも親神様と呼称されるこのお働きを考えてみても本当に不思議を御守護いただき私たち自身こうして結構にお連れ通りいただいていることを実感します元の理十全の守護がたすけの原動力このことを本当に心に修めてお互いがおつとめをする世界だすけを祈念しておつとめをつとめるということですこの十全の守護の理元初まりのお話しの理が心底心に修まらないとおつとめというものはその意義を失いますこのおつとめの理をしっかり心に修めるためにも私たちは元初まりのお話し親神様の十全の守護このことを日しっかり勉強する努力を重ねたいこのように思います自分の信仰生活の中にもまたおたすけの上にもこのことが根本です特にお互いのにをいがけおたすけということを考えたときに私はこのことがしっかり修まっていないが故に布教に力が入らない本当に力が湧いてこないここが本当に心に修まりさえすればもっともっとにをいがけおたすけそれぞれの教会のおたすけ活動にも拍車がかかってくるのではないかと思います自分のたすけていただいたことをお話ししなさいと仰せになりましたそこからかしものかりものの御教理のお話しを取り次ぎ親神様の十全の守護を人様に解っていただく心に修めていただくそして何のために私たち自身がこうして生かされているかという親神様の思召をお伝えすることが私たちのにをいがけおたすけですよふぼくとしての一番の力はこの元の理のお話そして親神様の十全の守護を自分がしっかり心に修めてそれを説き分けられるということそれが布教力に繋がると私は思うからその糸口を少しお話ししましたゆえん拠り所たる所以をしっかり心に修め直す世の中拠り所のないまたそれが故にいろいろ思い悩んでいる方に対して拠り所を教えられる私たちがしっかり教えをお伝えし一人でも多くの人に陽気ぐらしを味わってもらえるように頑張りましょうと真柱様も天理時報の元旦号あるいは年頭のご挨拶でも話されましたその親心に私たち自身がしっかりお応えしたいこのようにも思います機会あるごとに家族ぐるみで教会に参拝しましょうということを声掛けそれぞれにその心づもりでみなつとめていますが一つよふぼくゆえんお互いがその拠り所たる所以をしっかり心に修め直しをして神様に心を繋ぐということはこれを心掛けたいものですまた教会としてもただおいでなさいというだけではなく教会からも足繁くよふぼく信者の方の家へ尋ねて心を繋ぐお互いの絆を深め合うということが成人の上に大切なことだと思いますも百二十周年の記念祭に向けてその活動に取り組んでいるところで初代の心にかえってそして信仰の喜びこれを深めようということですが自分がまた先祖がたすけよられたときの喜びを我が心に喚び起こしそのことを台として親神様のお働き親神様の御守護ということを改めてお互いが確認をし合ってそして思召を伝える我が事に留めずに世の人に映していくというこのことがスローガンに込められた趣旨だと思います一つお互いに家族揃って新たな気持ちでしっかり親神様の思召にお応えできるようつとめ挙げたいこのように思います以上要約雅楽勉強会開催奉仕者育成目指して大教会雅鶯会中島誠治楽長は月日大教会で第回雅楽勉強会を開催人が参加した教会の雅楽奉仕者の育成を目的に少年会員一般の初心者を対象に開かれた参加者は笙篳篥龍笛の管別に分かれ人の大教会雅楽奉仕者を講師に管の持ち方手の動き唱歌など基本から学び練習の成果として最後に会議室で全練習の成果をお供え演奏員が平調越天楽をお供え演奏した中島楽長は参加者が前回に比べて少なかった事は残念だが少年会員の上達ぶりには正直驚いている初めての子でも数時間で音が出る様になっている鼓笛同様雅楽の楽しさを少年会員から広げたいと今後の抱負を話したまた参加者の人森本善修君小海松ヶ岡分は雅楽はお父さんにすすめられて始めた友だちがやっていないことをしていることうまく吹けた時は嬉しい正典おじちゃんの様にきれいな音が出せる様になりたいと話していたなぜか熊本産が津山で鶴山分で珍しい果物育つ本来九州熊本産の晩白柚ばんぺいゆと呼ばれるミカンの一種の果物が遠く離れた津山市の鶴山分教会中島誠治会長の庭で収穫された同会長が以前修養科一期講師として受け持ったクラスの人から晩白柚の苗木が数本送られて来た早速同教会で植えると共に珍しい物なので近所の家にも配った生育場所が違うためか実がつく事はなかったところが年程して立派な晩白柚が実った実ったのは教会だけだった中島会長はどうして教会だけ実ったか理由はよく分からないがあきらめず肥をし続けた事が良かったのかも知れな手前の個が普通のミカンい何事も根に元にしっかりと肥をしていく事が大切なのではと話していた大きさはバレーボール位で味はグレープフルーツに似ているが少上品な甘さがあるという百聞は一見にしかずというが実物は詰所主任室に機会があれば一度ご賞味されてみては婦人会よろこび広場とき月日夕づとめ後午後時ところ東西泉水プール前広場真南通り記念展示会とき月日月日ところおやさとやかた南右第二棟式典本部中庭午前時講演会午後時日月平成年年天理教婦人会創立百周年記念第回総会こころの詩女子青年のつどいとき月日午後時ところ天理大学杣之内第一体育館天理高等学校総合体育館別席月間月日月日月日月日養徳社発行陽気誌二月号道柳より転載今回の課題は見笠岡に繋がる教友の方が選ばれ掲載されていましたので転載させて頂きますおめでとうございます佳詠東悠分教会前会長夫人田林美智子見て嬉し聞いて嬉しい陽気道短歌三首ふと見れば枯木に芽吹く命あり四季は移ろう如月の庭梅ほのか五夜の窓辺に明けを待つあした月次祭の朝きびしき水仙のほのかに匂う御神殿ひとひ感謝に拝す一日の始め東悠分教会前会長夫人田林美智子さん表紙の絵神邉分教会よふぼく小坂道和さん小坂さんのプロフィール呉市生まれ小中高校と神辺町で過ごす高校卒業後東京で商業デザイナー鹿児島県大島郡での大島紬の織工を経てその後神辺へ現在地元町内会長のかたわら通称かんなべのまぼろしの絵師として絵書の創作活動を行うおぢばがえり団体タオルのデザイン年神辺美術協会新春展ポスター制作春季大祭祭文これのの神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前に会長上原理一慎んで申し上げますはじめ親神様には月日にわにんけんはじめかけたのわよふきゆさんがみたいゆへからと紋型ないところからこの世と人間をお創造になったばかりでなく御自愛溢れる親心と御守護のままに今日まで結構にお育て下さっております事は誠に有難い極みでございます加えて天保九年十月旬刻限の到来と共にこの世の表にお現れになり私達一列子供の歩むべき道筋を正し陽気ぐらし実現に導くべく教祖を月日の社とお定めになりひながたの道をお示し下さいました事は只申し訳ない気持ちと有難く勿体ない極みでございます私共はその御恩にお応えさせて頂くべく日は朝夕に御礼申し上げると共に一人でも多くの人に真実の親の思いを伝えるべくつとめとさづけを用いながらにをいがけおたすけにと勤め励ませて頂いておりますその中でもこの月二十六日は教祖が世界ろくじに踏み均しに出られた尊い日柄でございますのでおぢばでは春の大祭が執り行われますがその理にならい当教会に於きましても只今からおつとめ奉仕人一同喜びと感謝の心も一入に明るく陽気に勇んで坐りづとめてをどりをつとめて春の大祭を執り行わせて頂きます御前には今日の日を楽しみに遠近を問わず寒さ厳しき中も厭わず寄り集いました道の子供達が相共にお歌を唱和し尚も変わらぬ親心にお縋りする状を御覧下さいまして親神様にもお勇み下さいますようお願い申し上げます又本日は世話人島村廣義先生にお越し頂いております後程おぢばの声をお聞かせ頂きますがとにかくおぢばに心一つに睦び合う心を更に深めて拝聴させて頂き親神様教祖にお喜び頂けるよう実動させて頂く所存でございます更には又各教会でのおつとめ奉仕人増員を目標に大教会創立百二十周年記念祭に向け確実に成人の歩みを進めて行く所存でございます中でも三年千日と仕切っての成人の歩み二年目の今年は家族揃って教会参拝に重点をおいてつとめさせて頂きます家族の絆が失われる事によって荒廃を進めている現代夫婦親子そして家族が救け合う姿を世に写して行く事が親心を伝えていくにをいがけになると心に固く誓って成人の歩みを進めて行く覚悟でございます又それを推し進めて行く為にも学生会春の学生おぢば帰りや婦人会創立百周年記念総会そして少年会子供おぢば帰りや青年会布教推進週間等の各会行事も積極的に利用し育成に力を注いで行く所存でございます何卒親神様には皆の親への御恩報じ一筋の誠真実の心をお受け取り下さいまして万たすけの上に尚も自由の御守護を賜ると共に初代の頃の信仰の喜びとたすけ一条に勇み立つ姿を今のお道の上にお現し下さいましてお望み下さる陽気づくめの世の状が一日も早く実現しますようお導きの程を一同と共に慎んでお願い申し上げます原原稿稿募募集集小随筆教会布教所の独自の活動の紹介俳句和歌川柳教会行事開催後の報告記事等字前後字字題名所属教会名氏名を明記して下さい俳句等は句からでも結構です下記大教会内編集掛宛ドシドシご寄稿下さい郵便岡山県メール尚原稿はお返し致しませんので予めご了承下さい大教会だより教会指令任命願府中市分教会前任豊田道人新任豊田宏哉奉告祭承認教会長資格検定講習会修了者前期終講甲井山田要照雲岡本由美子第八二二期修養科一期講師弥髙山岡﨑和夫訃報奥忠儀氏府鮮分教会前会長一月十四日出直されました享年九十六才中島宇一氏大教会幹部承事鶴山分教会前会長二月十三日出直されました享年百二才自然環境に恵まれた我が教会の周りには色んな方が住んでおられる非情に毛深い方で主に夜中ひっそりと参って来られるいきなり天井裏へ駆け込んで元気よく走り回る方これはイタッチさんだろうか朝起きてみると荒れた畑が掘り返されていることがあるがこれは夜中一生懸命自分の鼻先を使って耕して下さったイノさんのお陰だろうタヌさんは夜道路を散歩されているのをよく見かけるそう言えば先日お尻の赤いエテ子さん達が久しぶりに参って下さったが旅の途中であったのか足早に東の山へと去って行かれたこの方の中には庭先に有難くない物を置いていかれる方もある勿論教会に来られる方はこのような方ばかりではない服を着て車を使って真実を運んで下さる人もおられるのだ非情に毛深い方と人との大きな違いは何であろうかと考えてみた人に有って毛物に無いものそのものが人間らしさと言えるであろうその一つは孝心ではなかろうか親を思い親に孝行しようという心である私は今までに人間以外で親孝行をしている動物を見たことがない聞いたこともないどんな動物でも我が子を思い育てるが生み育ててくれた親を思い孝養をつくすのは人間だけであろうそんなことを思いながら自分自身を振返ってみた果たして人間らしいと言えるであろうか大分毛深いのではなかろうかとは内容字数寄稿先