
『かさおか』第62巻 第2号
○1立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおか発行所天理教笠岡大教会かさおか編集掛笠岡市用之江377郵便番号714-0066(0865)電話66-1311FAX66-1314大惠山分教会昭和11年1月31日設立立教186年2月号かさおか立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号2○2018620大教会長様お話ひ、な、が、た、を学びな.お.し.全員参加の年祭活動を1・年頭会議において立教年大教会年頭会議は、1月日午後1時から大教会神殿で行われ、役員・部内教会長夫妻・布教所長らが参集した。大教会長様は、先ず、真柱様年頭のごあいさつを拝読され、その要点が「肝心なのは我々の心の成人」・「教祖の年祭は全教の節目」であるとして、年祭の意義を徹底するための心構えについて思いを述べられ、続いて、大教会の活動方針・目標を定めるにいたった経緯を縷々述べられた。なお、恒例の会食はコロナ禍のため中止し、引き続き「教会長夫妻並びに布教所長講習会」(別掲)が開催された。要旨は次の通り。まず、今年頭の真柱様のごあいさつを拝読します。昨年中は、いろいろとおつとめくださいまして大変ご苦労さまでした。昨年は、年が明ければ教祖百四十年祭への三年千日の動きが始まるというので、諭達を出しまして、そして年が変わって、年祭へ向かって仕切ってつとめる期間に入ったのであります。仕切ってつとめるということは、年祭という目的に向かって集中してつとめるということでありまして、この期間は、普段よりも力を入れて成人を進める旬であります。成人という言葉は、皆さん方は、その信仰的に意味するところは、あらためて言うまでもなくお分かりでありますが、ここにそんな人はいないと思いますが、成人というと、即物的に考えて、嫌気が差すという人もあるようであります。しかし、肝心なことは心の成人であり、そのための教祖のひ、な、が、た、でありますから、ひ、な、が、た、を目標に歩もうということを諭達で申し合わせているのであります。お、つ、と、め、を勤めてご守護を頂くのも、人が話を聞き分けるようになってくれるのも、つとめる者の心の成人ということが大きく関わっていると思うのであります。教祖の年祭は、私たちが最終的に目指す、親神様が思召される陽、気、ぐ、ら、し、の、世、の、中、へ、向かうための一つの区切り、節目という意味合いをもって勤めてきたと思うのであります。陽、気、ぐ、ら、し、への道のりは、人間の心の成人の道であります。考えてみたならば、非常に先長い話であって、何もなければだらけてしまうか、忘れてしまうということもあり得るのであります。そこで、身近に区切りを設けて集中的につとめる。そうして、ひと節ひと節、芽を出していくようにつとめることが必要ではないかと思うのであります。節目というのは、いろいろにあります。所属する教会の歴史の中においての節目。また個人の人生においての節目。節目というのは個人的にも集団としてもいろいろありますが、教祖の年祭は全教の節目であります。だから、全教の人が年祭の意味を知って歩めば、歩む人が増えれば、最初から分かっている人だけがつとめるよりも、一手一つの力も大きくなり、それだけ成人の道を進ませてもらうことができると思うのであります。そこで、年祭の意義を徹底するために、まず現在は、本部巡教を行っているのでありますが、巡教だけがすべてではなく、意義徹底のためにいろいろな方法を取り続けていかなければならないと思うのであります。皆さん方は、そのための心配りをする教会や部署などの責任ある立場にいるわけであります。年祭へ向かって進むときは、全教が一手一つにならなければならないときであります。一手一つの芯となるもの、何に一手一つになるかといえば、それは教祖の親心であり思召であります。お互いは、教会や施設、部署などでは、いわば芯という立場にあっても、芯となる思召に心を寄せてつとめる立場にあるということについては、ほかの人たちと同じであります。教祖の親心に応えることができるように、それぞれの務めを果たしていっていただきたいと思いま3○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおか186140186す。コロナもいまだすっきりと収まらず、また世の中も、戦争などで不安定な様相であります。そういうなかで三年千日へ向かってのスタートを切ることになりましたが、この年が、良いスタートを切る年でありたいと思っておりますので、心を合わせてつとめてくださいますように、よろしくお願いしたいと思います。年頭に当たって、あいさつとさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。(みちのとも年2月号4頁)立教年、明けましておめでとうございます。昨年は、教祖年祭に向かう道すがら、理づくりとして「人、だ、す、け、のためのお、ぢ、ば、が、え、り、」を目標に、それぞれ、一生懸命にお努めくださり、誠にありがとうございました。今年は、いよいよ、教祖年祭への三年千日活動、その1年目を迎えました。このスタートの年を互いに勇ませあい喜ばせあって通り、三年千日をしっ140かりと通り切れるように、本日は、年頭における真柱様のごあいさつと、笠岡大教会としての年祭活動の方針・目標についてお話しします。(拍手)▼肝心なのは我々の心の成人真柱様の年頭のごあいさつのなかで、私は、大きく2つのことが重要だと思います。1つは、「肝心なことは(我々の)心の成人であり、そのための教祖のひ、な、が、た、である」ということ。「お、つ、と、め、を勤めてご守護を頂くのも、人が話を聞き分けるようになってくれるのも、つとめる者の心の成人ということが大きく関わっている」と話されました。お互いは、教会長や布教所長など、それぞれの信仰の拠点での中心となる立場です。この年祭活動の芯となる私たちこそ、教祖のひ、な、が、た、をしっかりと学び、まず、自らが成人することが大事だと思います。▼教祖の年祭は全教の節目もう1つは、「教祖の年祭は全教の節目であり、年祭の意味を知って歩む人が増えれば、一手一つの力も大きくなり、それだけ成人の道を進ませてもらうことができる。/全教(の人)が一手一つにならなければならない。その芯となるものは教祖の親心であり思召である」ということ。諭達の冒頭にも、立教百八十九年、教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。とあるように、道の教えに繋がる全員の方に、それぞれに違いはあるにしろ、それこそ誰1人余すことなく、「年祭活動、頑張ろう/何かさせてもらおう」という心になってもらうことが大切だと思いました。▼意義徹底のために続いて、「年祭の意義を徹底するために、本部巡教を行っている。巡教だけがすべてではなく、いろいろな方法を取り続けていかなければならない」とあります。笠岡大教会としても、月日に本部巡教を受け、1月、直轄教会に対して、大祭参拝と兼ねて全教会一斉巡教を取り行い、諭達と年祭活動の意義の1121徹底を図りました。続いて、2月・3月には、部内の教会にも回ります。それだけではなく、その後もしっかりと、それぞれの教会に繋がる全員に、年祭活動の大切さを伝えることを、続けていかなければならないと思います。「巡教終えたから、これで全員に伝わった」ではなく、大教会としても、引き続き、諭達と年祭活動の意義の徹底を行なっていきたいし、それぞれの教会・布教所でも同様に、そこに繋がる皆さん方、一人ひとりに、年祭活動に自ら参加して成人の歩みを進めてもらえるように働きかけましょう。「全員」というのは「1人残らず」ということで、すなわち、教会に繋がるよ、う、ぼ、く、・信者はもとより、お、さ、づ、け、を戴けない年齢の子供たちにもということです。その子供たちにも、まず、年祭活動というのが大事な期間で、我々大人が「頑張っている/こんなことやっている」という姿を示すと同時に、何かしら動いてもらえるような声を掛けましょう。恥ずかしながら、私自身は、子供の頃の教祖年祭活動の記憶というのがほ年祭活動に臨む心構えを述べられる大教会長様立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号4○め、それから、それぞれの教会でも目がイメージした年祭活動は、「とにかのが、「教祖のひ、な、が、た、をテーマとし標と実践項目を定める、という流れにく、お、た、す、け、。では、この現代社会でて、それを毎月、発信していく」といなっています。は、具体的には、どのようにお、た、す、け、うものでした。昨年末に、大教会としての方針と目相手と繋がっていくのか。そのことを、これが、本当にいいなと思って、そ標を発表しました。年祭活動として打ち出していく。」、そこから、とにかく、「ひ、な、が、た、」に重諭達を受け、大教会として、何を打んなイメージでした。きをおいた、今回の方針と目標を決定ち出していくべきか相談したときに、教会によって様々で、どんなことがすることに繋がったわけです。とにかく「教祖のひ、な、が、た、」を、三年できるかも違うでしょうが、これまでそして、真柱様の年頭のごあいさつ間、しっかりと辿ろうということで、のに、を、い、が、け、・お、た、す、け、、路傍講演やを拝聴した今、現時点では、「方針と「つながろう、おやさまのお心に。つパンフレット配りでは、現代社会にお目標、間違っていなかったな」と感じなげよう、信仰の喜びを。」を活動方いては、実際に、お、た、す、け、相手と繋がています。針とし、目標を「ひながたを学び、そるのがなかなか難しいと思います。私が、それまで思い描いていたイのお心を実践しよう。」と定めました。もっと具体的に、別の形で、お、た、す、メージがなくなったわけではありませとんどありません。今の年齢になって、年頭の真柱様のごあいさつを拝聴しけ、相手と繋がることができる方法を模んが、このたびの年祭活動は、やはり、子供のときに、親がしていたことをて、あらためて、この方針・目標で間索していけないか。例えば、教会ひ、な、が、た、に重きを置いて、もっと基本知っておけばよかったと後悔していま違いなかったと思いました。でのこども食堂などの先に、お、た、す、け、的なことをするべき旬だと思ったのす。あえてお話ししますが、諭達・本部する相手と繋がる姿を思い描くといっで、そういう方針・目標になりました。簡単なことではありませんし、「せ巡教を受けて、私がそれまででイメーた、お、た、す、け、相手と繋がる具体的なこなあかんのや」という押し付けになっジしていた年祭活動というのとは、正と、何か新しい方法(路傍講演や戸別▼年祭活動の重点てもいけないと思いますが、分からな直、違いました。訪問ではない)を提示したり、共有し会長として初めての年祭活動を迎えいなりにも、子供たちにも、少しでも、混乱されるかもしれませんが、私は、ていく。そんな形をイメージしてるにあたり、私は、正直、「どんなこ年祭活動の意義、易しく言って「空気」昨年のこの場で、「理想の教会像」にいたので、本部巡教を受けた時点で、とが起こってくるんだろう/どんな喜でも伝えていけるように、それに向ついて、地域社会に溶け込んで地域に年祭活動をどうしていけばいいのか、びを見せていただけるんだろう」といかって努力しましょう。必要とされて、そこに繋がる皆さんが正直、全く分からなくなりました。う不安や期待もあります。▼ひ、な、が、た、を目標に歩もうお、た、す、け、に喜んで向かっている、そんな姿を夢想するとお話ししました。そこで、年祭準備委員会のメンバー「成人の旬」であるこの三年千日に人を集め、私の考えや思いを話したは、間違いなく、普段より多くの節や10かさおかこのたびの年祭活動、年祭に向かっその後、昨年、『みちのとも』に掲うえで相談すると、今回の三年千日の身上・事情、慶び事も見せていただけては、まず、大教会の方針と目標を定載された両統領先生の対談を読んで私具体的な大教会の活動として出てきたると思います。5○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおかこの3年間をしっかりと通り切るには、本部巡教で井筒先生が仰ったように、とにかく、教祖を見失わないこと。教祖さえ見失わなければ、ご存命の教祖が間違いなく導いてくださる。そのためにも教祖のひ、な、が、た、を「もう知っている/十分学んできた」という方もおられましょうが、あらためて教祖のひ、な、が、た、に込められた親心を学びな.お.し.、そのお心を実践して、互いに成人を進める。そんな三年千日になるように、この3年間は、とにかく、「ひ、な、が、た、」、これをしっかりと辿りましょう。それも、自分だけで努めるのではなくて、教会・布教所に繋がる全員に子供たちにも、まだ見ぬ新たなお、た、す、け、相手にも伝えていけるように、互いに勇ませあい喜ばせあってお通りいただきますようお願いいたします。最後に、連絡事項を、3件、お伝えします。1件目:2月・3月の部内巡教ですが、しばらく実施できませんでしたので、しばらくぶりの巡教になります。このたびは「全教会一斉巡教(諭達28186巡教)」として行います。祭典を終え、ひとまず区切ってから、決められた式次第に則って勤めますので、祭典後の巡教に重きを置いてください。基本的には、従来の部内巡教同様、巡教員がお、つ、と、め、衣でお、つ、と、め、を勤めます。祭典後、式次第のなかでお話を取り次ぎ、食事接待は無しで帰るという形で勤めます。コロナ禍もあり、教会によって様子も事情も違うでしょうから、教会によっては、弁当を準備したり、あるいは、巡教員がお、つ、と、め、の終わり頃に到着して、背広・スーツでお話を取り次いで帰るというケースもあるかと思いますが、一斉巡教(諭達巡教)の講話の取り次ぎに重きを置いたうえで、具体的なことは、それぞれの教会で巡教員と相談してください。2件目:学生担当委員会から。今年の3月日に本部で開催される春の学生おぢばがえりには、笠岡として初めて団体を組んで参加します。諭達にあるように、「ぢ、ば、を慕い、信仰を受け継ぎ、引き継いでいく」ことを考えれば、学生に対する行事も非常に重要ですので、笠岡に繋がる学生が、1人でも多く、お、ぢ、ば、に教祖に繋がるように、皆さま方には、ぜひ、動参加して、共に、成人できるように、員の声がけをお願いします。このことをお願いして、私の年頭にあ3件目:本部に提出する今年・立教たってのごあいさつといたします。年の人づくりと御供・ご奉公の心定(拍手)めについて。人づくりはそれぞれの教《以上要旨》会からの数を合計したもの、御供は昨年と同様に心定めしましたので、ご承知おきください。春季大祭講話教祖にお喜びいただけるこのたびの年祭活動、一人ひとりが、教祖のひ、な、が、た、を学び、そのお心を実践し、あらためて、成人の歩みを進め真心をもって取り組もう大教会長様21186ようということと、笠岡に繋がる全員、立教年大教会春季大祭は1月どんな方にも、もう、1人も余すことなく、残らず、年祭活動に、少しでも日、大教会長様祭主のもと役員・部内教会長・布教所長・よ、ふ、ぼ、く、・信者ら参拝のもと執り行われた。大教会長様は、教祖年祭の元一日を記念してつとめる春季大祭に殿内北側半分は椅子席となった当たり、正に、年祭活動が始動したこの旬の心構えとして、諭達・真柱様年頭のごあいさつ・逸話篇を引用され、まず、「笠岡の心を一つにして歩むこと」・「自らの心の成人を進めること」を促された。続いて、教祖にお喜びいただける「真心をもってつとめること」・「心のほ、こ、り、を払.え.る.よ.う.に.通ること」に気を付けようと述べられ、かさおか立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号6○最後に、このたびの笠岡としての活動方針・目標への取り組みについて述べられた。前日の年頭会議同様、終始、即物的な考え方ではなく、心の持ち方・置所に重点をおいた講話となった。要旨は次の通り。140186ただ今は、立教年の春の大祭を、皆さまと共々に陽気に勇んで勤められました。誠にありがとうございます。本日は、教祖年祭に向かっての三年千日と仕切っての年祭活動期間を歩むにあたって、思うところをお話しします。(拍手)1026▼笠岡の心を一つにしたい昨年月日、真柱様より『諭達第四号』が発布されました。この諭達と本部巡教を受けて、笠岡大教会としての方針と目標を決めました。このたびの諭達では何が一番大事かと考えると、笠岡の方針・目標を知っている方の多くは、おそらく「ひ、な、が、た、」が思い浮かぶと思いますが、私はそれと同じか、もっと大切だと思うことがあります。それは、諭達の冒頭にある「全教の心を一つにしたい」ということです。真柱様は、今年頭のごあいさつのなかで、年祭へ向かって進むときは、全教が一手一つにならなければならないときであります。一手一つの芯となるもの、何に一手一つになるかといえば、それは教祖の親心であり思召であります。と話されました。教祖の親心・思召を芯として、全教が一、手、一、つ、になる、このことを、三年千日の年祭活動を歩むに当たって、私は、とても重要なこと、大事なこととして、皆さんにお願いしたい。このたびの年祭は、「自らが勇んで通る」のはもちろんのこと、「年祭活動を、身の回りの方にも伝えて、共に、成人の道を歩もう」ということです。全教の心を一つとするために、まず笠岡として、一、手、一、つ、に、心一つにできるように努めましょう。教会・布教所や家庭に繋がる方、とにかく身の回の方一人ひとりに、誰1人漏らすことなく、どんな形でもどんな小さなことでもいいので、自らが求めて年祭活動を努めてもらえるように、その意識を持って、3年間通り切りましょう。このことを、まず、最初に、私の思いとしてお話ししました。▼まず、自らの心の成人を特に、次の世代を担う子供たちに、伝えていきましょう。もちろん、押し付けになってはいけないし、「しなければならないからしろ」と声高に叫ぶのではなく、子供だち一人ひとりを見て、「この子ならどう言ったら伝わるだろうか」と思い巡らし、伝える努力をして、「少しでも、どんな小さなことでも、親神様が、教祖が、喜んでくれるんだよ。それでたすけてもらえるんだよ。」と伝えて、ともに歩む3年間にしましょう。「子供の成人」という逸話ですが、教祖の仰せに、「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。(逸話篇)196とあります。また、年頭のごあいさつでも、真柱様は、お、つ、と、め、を勤めてご守護を頂くのも、人が話を聞き分けるようになってくれるのも、つとめる者の心の成人ということが大きく関わっていると思うのであります。と話されました。まず、自分自身の心の成人を進めたうえで、進めながら、同時に、子供に、また身の回りの人たちに、教えを伝える声がけを行なっていく、ということを心がけましょう。▼年祭に向かう心構えそのことを、まずお願いしたうえで、この3年間、通るうえでの注意点、「今さら、そんなことを」と思われるかもしれませんが、あえてお話しします。2つあって、1つは「どのような心で努めるのか」ということ。もう1つは「心のほ、こ、り、をしっかりと払って通る」ということです。▽何事も真心をもってつとめるどのような心で通るのかということについて、教祖の逸話を拝読します。7○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおか真心の御供中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」と、非常に御満足の体であらせられた。これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」と、仰せられた。(逸話篇7)このように、教祖は、品物ではなく、真心を、何よりも喜ばれる。それは、御供物に関することだけではなくて、教会でのお、つ、と、め、・お掃除、に、を、い、が、け、・お、た、す、け、など、私たちの、日々の全ての行動の根底にある心が、教祖にお喜びいただける心で何事もさせていただくということ。▽心のほ、こ、り、を払.え.る.よ.う.に.通るそしてもう1つは、心のほ、こ、り、を払って通るということ。これも、逸話のなかで、こんな風に、教祖が仰っています。どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るの130やで。(逸話篇)と。親神様のお心に添わない心遣いを、「ほ、こ、り、」に例えてお教えいただいていますが、道を信仰する我々は、お、つ、と、め、を勤め、お、さ、づ、け、を取り次いで、日々通るなかで、心のほ、こ、り、を払う機会は、何度もあると思います。なぜ、あえて、今、この話をしたか。ある女性が健康のために走っていたが、体調を崩して医者に診てもらうと「筋力が低下している」と言われた。健康のための運動だったのに、使っていた筋肉が違ったので、調子を崩す元になり、鍛えていたはずなのに、全然鍛えられていなかった。この話を聞いて、私が、さらに思い浮かんだのは、私が、本部勤務から大教会に帰って、神殿掃除をするようになったときに、とても気になることがあった。毎日、掃除しているのに、太鼓とスリガネの足の部分に白いほこりがずっと溜まったままになっていた。それは、ほこりを隅に寄せて終わるような掃除の仕方になってしまっていたから。私は、特に、神殿掃除することは、「自分の心のほ、こ、り、を払う」つもりで努めているので、余計に気になったのでしょうが、「しているつもりで、実は、ほこりを溜めてしまっている」ということが、私たちにも、あり得ると、そのように思案しました。このたびの記念祭に向かっては「ひ、な、が、た、を学び、そのお心を実践しよかさおか立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号8○10261121う。」という目標を掲げています。当然、承知しているであろうこの教祖のひ、な、が、た、を、あらためて、学んで、自分自身の心の掃除の仕方、ほ、こ、り、の取り方が、ほ、こ、り、を隅っこに追いやるような掃除になってしまっていないかを、あらためて、確認して、スッキリ、そのほ、こ、り、を払えるよう、努めていただきたいうえから、このお話をしました。▼笠岡としての方針このたびの教祖年祭に向かっては、月日に真柱様より、『諭達第四号』をご発布いただき、月日に本部巡教を受けました。その後、年祭準備委員会を立ち上げ、年祭に向かう方針と目標を相談し、決定しました。活動方針は「つながろう、おやさまのお心に。つなげよう、信仰の喜びを。」、目標は「ひ、な、が、た、を学び、そのお心を実践しよう。」と定めました。▽つながろう、おやさまのお心に。このたびの諭達の根底にあるのは、ひ、な、が、た、を辿ることだと考えましたが、「ひ、な、が、た、」というと、「貧に落ちきる/ご苦労」など、「苦労をしなければならない」というようなイメージがあるという意見もあったため、「ひ、な、が、た、」という言葉を使わずに考えてみました。そうして、「あのとき、教祖はどうなさったのか/どんなお気持ちだったのか/教祖ならどうなさるか」そういったことを想像してみて、常に教祖を思い浮かべ、教祖のお心に繋がろうとする態度が、ひ、な、が、た、を求めることになるのではないかと思いいたったので、方針を「つながろう、おやさまのお心に。」としました。▽つなげよう、信仰の喜びを。また、お道を通るうえでの、喜び、「か、し、も、の、・か、り、も、の、/生かされて、生きている喜び/元なるを、や、を明かされていること/たすかる筋道を教えられていること」、教えを知っていることで喜べることは、たくさんあることに気付きます。そして、その湧き上がる喜びを態度に表すことがひ、の、き、し、ん、であり、周囲の人々に喜びを映していくことがに、を、い、が、け、やお、た、す、け、だ、と思います。さらには、この喜びを次代へ繋げていくということ。「道は末代」。諭達にも、親から子、子から孫へと引き継いまつでいく一歩一歩の積み重ねが、末だい代へと続く道となるのである。とあるように「末代」に信仰の喜びを繋げていこうという思いを込めて、「つなげよう、信仰の喜びを。」としました。▽ひながたを学び、そのお心を実践しよう。目標は「ひ、な、が、た、を学び、そのお心を実践しよう。」です。これまでの年祭活動は、数値目標を掲げ、その達成に向けて奮起を促してきたという歴史があったかと思いますが、年祭活動は「しないといけない」ものではなくて、飽くまでも「させてもらおう」という勇み心でするものだと捉え、このたびは、具体的な数の目標は掲げず、皆さんが、それぞれに、何をするかを決める。そのために、このような表現にしました。ひ、な、が、た、を学んでいく手段、1つの方法として、大教会では、教祖をテーマにした「KASAOKAひながた通信」というものを作り、毎月、発信します。ポスターがお手元に届いているかと思いますが、その右下にQRコードが2つあります。1つは、昨年末に作った笠岡大教会のホームページにアクセスするためのQRコード、もう1つは、この「KASAOKAひながた通信」にアクセスするためのものです。最初はLINEの友達登録をすることになります。毎月1日に、教祖のひ、な、が、た、から1つテーマを選んで、それに基づくお話をすることになっています。この「QRコード」は、スマートフォンでそれを読み込んでアクセスすることになります。それが、ご自分でできなくても、近くにいる若い方でしたらできると思いますので、お子さんやお孫さんに、「これ見たいけど、分からんんのよ」と言って、操作して一緒に見てもらうこと、これも次代に信仰を繋げていくための一助になるでしょう。また、スマホで見られない方には、紙に印刷したものも配布しますので、それぞれの教会ごとに、希望数・必要数を大教会にお申し込みください。そしてもう1つ。このたびの年祭活動では、「おたすけ・お願いカード」を活用していただきたい。9○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおか323123191121371214このたびは、「必ず大教会にお供えする/数をカウントする」ということはしません。それぞれの教会で、どのように活用するかを考えて、使ってください。大教会にお供えしたい教会は、大教会の方で、それを受付して、月次祭のお、つ、と、め、が始まる前に、それを供えて、お、つ、と、め、を勤めます。▼ご存命の教祖を見失うことなく、一、手、一、つ、につとめよう真柱様の「全教の心を一つにしたい」という思いに沿うことができるよう、まず、笠岡が、一、手、一、つ、となって努めたいと思います。一、手、一、つ、ということについて、お、さ、し、づ、に、一手一つに皆結んでくれるなら、どんな守護もする。(明治・1・)また、皆んな一手一つの心が無けりゃ、治まっても治まらん。(明治・7・)また、皆心、一つの心に成りてくれ。一つに成れば強いもの。そもくの心は、どうしてやろうこうしてやろう、と言うたとて、出来ん。そこで暇が要る。もうこれから、皆心というは、一人の心にようあれだけの心を揃うたなあというは、世界にどんな事も映る。これをよう皆々の心に持ってくれにゃならん。(明治・・)とあります。諭達の最後に、この道にお引き寄せ頂く道の子おやさまふしめ一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界た、す、け、の歩みを一いっ手てひとおごぞんめい一つに力強く推し進め、御存命でおやさまお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。とあるように、一、手、一、つ、に、喜ばせあい勇ませあってつとめ、三年千日を通り切り、御存命の教祖にご安心いただきお喜びいただけるように、お通りいただきますよう、お願いいたします。最後にもうひとつだけ。年祭活動期間に入りますと、いろいろなことが起きてくると思います。それは、慶び事、うれしいこともあれば、身上・事情や、しんどいな辛いなと思うことも数多く起こってくると思います。ですが、月日の本部巡教で井筒先生が、私たちは、教祖さえ見失わな今日は、天理教の教会は現代社会にければ、どんななかでも教祖が支えておいて用無しになっていくんでしょうくだされ、「存命の理」で、間違いなか、このまま消えて行くんでしょうかく導いてくださる、と話されたように、というようなお話をさせていただきた教祖を、教祖のひ、な、が、た、を見失わずに、いと思います。ちょっと質問に答えてしっかりと見つめて、そのお心を学び、下さい。これから道に明るい未来はあ自ら実践していくことをお願いして、りますか?これからの道に明るい未お話を終わります。(拍手)来はあるとYESと思う人、じゃあ未《以上要旨》来があると思われたかたはなぜそう思うんでしょうか。ちょっと心に浮かべ布教部教会長夫妻並びに布教所長講習会開催てみてください。また未来はないと思った人はなぜ未来はないと思ったんでしょうか。なぜという所を深めてい201・年頭会議に引続きかないと私はいけないと思います。どちらでもいいですが、ただ現状は非常80布教部(田中隆之部長)は、年祭に厳しいものはあります。教祖年祭90活動歩み出しの大切な時旬に、笠年祭をピークにおさづけの理拝戴の岡が一丸となって年祭活動を推し人数なんですが、客観的に見ると右肩進めるためには、教会の竜頭であ下がりになっている。大事なのはなぜる教会長・その配偶者・布教所長のそういったことになってきたのかとい合力は外すことが出来ないとしうことです。て、「教会長夫妻並びに布教所長伝統宗教は、生老病死という人間の講習会」を開催。杉江健二先生(甲根源的な悩みに応えてきました。新興賀部属美張分教会長)を講師に招宗教においても、貧病争、このテーマき、「多様化する社会の問題を学に答えを出している宗教が伸びたんでび、自分にできるおたすけに取りす。お道は結核のおたすけで伸びたと8090組もう」をテーマに次のようにお言われますが、教祖年祭年祭はそ話しいただいた。ういったものに一生懸命かかればおたかさおか立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号10○すけを待っている人々が大勢いました。釣りに例えると、今、一生懸命にをいがけしておたすけをしようと思っている私たちの船の下には魚はいないんです。困ってる子達はそこに困ってないんです。今は保険もある、病院は立派にある、医学も発達し、以前困っていた結核は現在ほぼありません。そういう中で私たちがおたすけしようと思っていたその人達、今日は魚はそこにいないで移動してしまったんです。バブルがはじけ教祖年のあたり、1980年ぐらいから、助けを求める魚達はそこにはいなくなってしまった。私たちが一生懸命おたすけしようと思ってやっているその下には魚はいないんです。じゃあ困ってる人はいないのか、いるんです、別のところに。ある時、前真柱様とお話をさせて頂いてる時に、「世の中にはなお助けを待ってる人は大勢いるのに私たちようぼくはそこに行けてないで」って言われたんです。これが実は教勢が伸びて行かない原因の1つなのではないでしょうか。私たちの思いばかりではおたすけは現実には起こってこないんです。天理教と全く接点がない方そして天理教の100302452195915教会もしくは教会長様ようぼく信者と接点がある方、うちも子ども食堂やってますが、こども食堂に来る人たちと向き合い、おたすけ活動を展開しなければならないことにようやく気付いた。私たちはもう一度、お道を知らない人たちと接点を作って何に困ってるのか聞かなきゃいけないと思いませんか。私がそのことに気づいたのが年祭の3年前、ちょうど年前からその思いに駆られて少しずつ少しずつ躓きながらやってきたことを少しご紹介をして、何かのご参考になればということでお話を聞いていただきたいと思います。まずは2011年、今から年前に私は空手道場を始めたのですが、生徒の保護者から、「先生うちの子供学校行けてないんだけど先生の空手教室は行くんですけどどうしたらいいですか」ってご相談を受けたんです。そして不登校のおたすけを始めた。よく調べてみると世の中には不登校ってのがいっぱいいて万人、このコロナ禍で今万人にもなっているんです。年間日以上の欠席を不登校と言いますが、不登校気味の子どもたちも含めると、なんと万人もいるんです。どん1013012151773010130147616どんどんどん増えています。また引きこもりや仕事をしないニートは合わせて万人もいるということが分かってきたんです。今のこの世の中で万人の人たちが引きこもり不登校ニートなんです。この8年間に復帰した人は件、まだ継続してしているのは件、相談だけで終わった人件、中断した人件、合わせて件の不登校のおたすけに関わってきました。その中で教会に住み込んだ人は名ありました。そんなことでお助けにかかり初席運んだ人が人、ようぼくになった親が人、講社を祀った人もあります。そして年前、年祭の三年千日の始まるそのタイミングで、親の代からやっている里親、空手道場など得意なことをやろうということで、陽気会という名前を付けて子どものおたすけを始めました。私は里親をしているのですが、今までに人の子どもを預かってきました。そのうちの8割の子どもたちが虐待を受けていた。そんなこどもたちと一緒に生活しながら、このままでいいのだろうかと思うようになりました。そうするうちに名古屋市の児童相談所がうちの教会の隣に移転してきました。その児童相談所で一時保護11229241030されている建物から、「ママー、ママー!」と叫ぶ女の子の声、「殺せー、殺せー」とわめく男の子の声が聞こえてくるんです。過去に殺されそうになった体験がトラウマになって叫んでいるのです。私はおたすけのつもりで虐待された子どもたちを預かってきましたが、教祖が望まれるのは虐待を受ける子どもたちのいない世の中になり、私たちのような里親がいなくなることだと思うようになりました。児童虐待が社会に知られるにつれ、国が策を講じてきたにもかかわらず、年間増え続ける児童虐待の防止をこの時私は決意しました。名古屋市の市長に会い直談判して、児童虐待の再発を防ぐための保護者支援事業ってのを始めたんです。虐待をしたお父さんお母さんに、虐待だめだよって言うだけじゃなくて、教えてあげるから一緒に勉強しようと。本当に心から訴えれば、天理教とかそんなの関係ない、通じるんです。皆さんも笠岡市の市長さんのところに、こんな事業をしたいと行かれたらどうですか。名古屋市の委託で講座の講師をやっていますが、人のうち人が天理教の教会長か奥さんなんです。そして今までに件以上の虐4001711○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号600かさおか待した家庭を復帰させてきたんです。その中から、もっと早く教えてもらいたかったという声が上がり、イライラしない子育て講座、名古屋で年間2千人ぐらいの人が受講しています。私ひとりで始めたんですが仲間を募って、トレーナー養成講座を始めました。現在、人の方が全国にいますが、まだまだ増え続けています。東京教務支庁、大鳥大教会でも開催されました。笠岡大教会も是非いかがでしょうか。さらに、天理教里親連盟とタッグを組んで、イライラしない子育て講座にちょっとお道の信仰を加えて、TFA天理教ファミリーコミュニケーションアプロー映像を駆使して話される杉江先生チってのを作ったんです。全国の教会や修養科の課外授業でも取り入れられています。これは親になってから学ぶよりも親になる前に学んだほうがもっといいでしょう。そこで産前子育て教室制度化を思い立ち、この必要性を国に訴えるために署名活動をしてきました。教会長になった当初は何をしたらいいかわからなかった。路傍講演するけど素通りするだけ、にをいがけにまわるが誰も聞いてくれない。これでいいのだろうか、世の中の人たちは困っていないんだろうかって思っていましたが、不登校、ひきこもり、虐待、依存症、現代のおたすけはいっぱいありました。ただ私たちが気づかないだけなんです。そういう人たちにもっと目を向けましょう。子育てにつまずいて悩んで役所などに相談に行く親は実は2割程度です。8割の人が諦めてるんです。子育てに悩む人々に声をかけて、地域の子育てステーションの役割を教会が担えるということをぜひ皆さん覚えておいてください。教会ではそれ以外にも、子ども食堂、フリースペース、里親活動などができます。人手がなければ近所から呼んでくればいいでしょう。何でもいいからやれることからやっていきましょう。そして困ってる人のところに行かなければいけない。一生懸命頑張ってますが、魚がいないところで一生懸命やっても自分たちの自己満足でしかない。困っている人はたくさんいるので、そこへ行きましょう。いま社会は、子ども家庭庁が今年の4月にできますが、霞が関でその審議官と話をしてきました。すると、僕らが思っていることと全く同じことをやりたいと言っているんです。ということは、我々お道はそれができるということです。天理教の教会や布教所は、今まさに国や地域が必要としている社会資源になり得るということを話をしたかった。最後になぜ私がここまでできるようになったのか、そのお話をします。私には男の子が3人いるんですが、待望の女の子を授かりました。本当に嬉しかったのですが、娘は重い障害を持って生まれてきました。何とか助けていただきたいとおさづけを取り次ぎ、六座のお願いも初めてしました。しかし時がたつにつれ体には水が溜まり、見るも無残に膨れ上がって本当にかわいそうな姿になった。もうこれが神様の私たちに与えられたと言ったらまた出直してくればということで。NICUで先生達が私達夫婦と娘3人のスペースを作って下さって、生命維持の器具を全部外して、今から出直しを迎える時間を過ごさせてくれたんです。娘の体をさすりながら、本当に申し訳ない、かわいそうだなどといろんなこと考えました。でもこのままで終わったらお道の者じゃないって、この節をどう乗り越えるか、心を定めよう。この子の出直しを無にしないための心を定めようと定めたのが、生かしの道、ということなのです。娘は五体不満足で出直したけれども、世の中には五体満足で生まれてきながら学校に行けず引きこもりがあったり、いじめがあったりして生き生きと学校に通えない子供たちがいっぱいいる。そして親から叩かれ怒鳴られて、寂しい思いをしている虐待にあった子供達が万人もいる。この子たちを生き生きとして生きててよかったって思える子供にしようというのを生かしの道と私は定めたんです。娘の出直しの節がなければ私はそこまでのエネルギーは湧いてこなかったと思います。そうして始めたおたすけですが、2021少年会詰所からのお願い詰所での宿泊・喫食について詰所で宿泊・喫食される場合は、「教会名・代表者名・泊数・食数」を、2日前までには、必ず詰所へご連絡ください。食事をしない(宿泊のみの)場合でも、2日前には申し込みをして下さるようお願い致します。部内教会・信者に徹底願います。立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号12○いっぱい教会に不登校の子達を預かっない。知識だけだった。本当に我々が私がやらなかったら誰がやるんでしょて、どんどんみんな元気になっていっするのはおたすけ、不登校の専門家のうか。おたすけの接点の様々なチャンたんです。周囲からは先生先生と呼ば仕事するんじゃない。それ気づいて、ネルづくりをして下さい。この努力はれて調子に乗っていた私なのですが、それから私は全員の親に、すみません必要なんです。周囲にあなたのおたすあろうことか私の長男が不登校になっ私の子供が不登校になってるんですけを待っている人は必ずいます。天理てしまったんです。辛かったですねえ、よ、そんな私でも話していいですかと。教の教会や布教所は現代社会においてもうおたすけやめようかと思いましそしたら相談は減るどころか増えたん本当に必要な場所になれる可能性が高た。助かりますよって言っときながらです。そんな杉江さんだからこそ私のいんです。ぜひチャレンジしていきま自分の子供見てみなさい。お母さんご苦しみを聞いてほしいんだと。これがしょう。めんなさい、うちの子供も助けられんおたすけなんです。支援とおたすけのような私ですよってカミングアウトしようかと思ったけど、どんどんどんどん来るもんだから言えずに心が悶々と違いをその上級の会長さんの態度で教えていただいたということです。まずはおたすけの現場に近づくよう「テッチャンシアター」開催してるんです。本当に心が折れそうにに、こちらから探すということが大事春季大祭後苦しかったんです。そんな時にちょうだと思います。私たち人間には欠点にど春の大祭に上級の会長さんがお見えばかり目が行く習性がありますが、良少年会笠岡団(森本忠善団長)は1月になった。私は初めて自分のたまらないことに着目しましょう。天理教の教日大教会祭典終了後、今年初となるい思いを吐露したんです。そしたらで会元気ないですけれど、でもいいとこテッチャンシアターを開催させて頂きすねうちの上級の会長さん、何て言っいっぱいあるんです。だっておたすけました。土曜日という事もあり子供たたと思いますか。何にも言わず涙ぽろの心持ってる人がこんなにいるじゃなちも多く参加してくれました。ぽろと流してくれたんです、こんな私いですか。世の中みんなお金くれなコロナ禍と言う事もあり、接触などのために。滅茶苦茶嬉しかった。恥ずきゃ仕事しません。ボランティアの人は避け、「まねっこ遊び」や「頭の体かしながら男泣きに泣きました。そしだって、ほめてくれなきゃやらないん操」、ハンカチを使ったゲームなどをてその日の祭典はめっちゃくちゃ勇みです。お道はどうですか、文句言われ行い終始、笑いが絶えない楽しい時間ました。子供何も治ってないですよ、たって、ありがとうございますと言っとなりました。かさおかただ心が元気になった。そこで私は大てひのきしん精神でやるじゃないですありがとうございました。きな間違いに気づいた。私は単なる不か。最後に平櫛田中の言葉ですが、今(少年会委員丸山智旬)登校の専門家だった、おたすけ人じゃやらなければいつやるんでしょうか、13○立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号かさおか春季大祭祭文これの笠岡大教会の神床にお鎮まり下さいます親神天理王命の御前に会長上原明勇慎んで申し上げます親神様には「月日にわにんけんはじめかけたのわよふきゆさんがみたいゆへから」と紋型ないところからこの世と人間をお創造になったばかりでなく子ども可愛い一条の親心から今も変わる事なく成人へとお導き下さいます事は誠に有難く勿体ない極みでございます私共はお聞かせ頂いた御教えに込められた親の思いにお応えしたいと日夜御礼を中し上げると共に御思報じを思い念じてたすけ一条の御用の上に努め励ませて頂いておりますその中にも今日の吉日は今月二十六日教祖が世界ろくぢに踏み均しに出られた尊い日柄におぢばで春の大祭が執り行われるその理にならい当教会でも只令からおつとめ奉仕人一同おつとめをつとめられる喜びと感謝の心も一入に明るく陽気に勇んで坐りづとめてをどりをつとめて立教百八十六年の春の大祭を執り行わせて頂きます御前には今日の日を楽しみに寒さ厳しき中も厭わず寄り集いました道の子供たちが相共にお歌を唱和し尚も変わらぬ親心にお縋りする状をご覧下さいまして親神様にもお勇み下さいますようお願い申し上げますさて本年は教祖百四十年祭に向かう三年千日と仕切っての年祭活動の最初の年であります今月は直轄教会に一斉巡教を行い諭達の精神と年祭活動の意義の周知徹底を図りました続けて二月三月と部内教会にも一斉巡教を行います笠岡で定めた「つながろう、おやさまのお心に。つなげよう、信仰の喜びを。」の活動方針と「ひながたを学び、そのお心を実践しょう。」の活動目標のもとそれぞれの教会でも目標と実践項目を定めて年祭活動を推し進めご存命の教祖にご安心頂きお喜び頂けるよう努め励ませて頂く所存でございます何卒親神様にはどんな中でも親を信じて慕う皆の誠真実の心をお受取り下さいましてお望み下さる陽気づくめの世の状に一日も早く立て替わりますよう御守護お導きの程を一同と共に慎んでお願い申し上げます立教百八十六年春季大祭祭典役割表祭主大教会長様中島誠治扈者岡﨑真一赤木素志賛者杉原善朗指図方上原繁道講話大教会長様三月講話上原志郎区分役割地方おつとめてをどり笛ちゃんぽん拍子木太鼓すりがね小鼓琴三味線胡弓坐り勤前半後半佐藤道孝上原志郎中島誠治山野弘実武内清明虫明立生中村義太郎岡田誠三代温生大教会長様門脇元教田中隆之前会長様中村道德吉岡誠一郎上原繁道横山逸郎森本忠善大教会奥様門脇加津谷内美知子前奥様横山小智榮岡﨑和美田中ますみ中村初美吉岡八恵岡﨑真一杉原善朗岡﨑治喜中村剛上原浩赤木素志吉岡壽今川昌彦山田敏教谷内伸自田林久嗣内海史郎三島渉高木昭祥渡邉隆夫岡﨑治喜佐藤真孝上原繁次佐藤香苗森本冨美子三島照美武内正美岡﨑豊子山野なつ上原順子室悦子田中つかさ立教186年(令和5年/2023年)2月21日第62巻第2号14○84先月、近所の信者家庭で2年前にご主人を亡くした歳の女性が出直され、月次祭前日に葬儀を行った。子供は女性2人いて1人はすでに嫁いでいたのだが数年前に癌で亡くなり、残されたもう1人の女性が母親と2人暮らしをしていた。姉・両親と続けて身内を失い一人ぼっちになった娘さんは頼れる人もなく出棺前には棺に縋る姿に周りの涙を誘った。葬後霊祭後、自宅に仮社を据えると娘さんが母親の遺書かメモの様なものを見せてくれた。「結婚は失敗だった。新築してから私の居場所はなかった。」その様子をずっと見てきた娘さんは母親の気持ちが手に取る様に分かっていたのだろう。亡くなった姉の子供、姪に当たる子とはとても仲良しの様子で五十日祭には2人だけの参列という。何とか納得のいく人生を送ってほしいと願うばかりで私に出来る事があれば力になりたいと思った。隣・近所であっても中々家庭の中まで知る事がなかったのは、自分がそれだけ気にする気持ちが薄かった事、またそうした態度になっていたかもしれない事など反省し、いつも変わらぬ態かさおか度で挨拶する事から助け合える関係が築ける様、この三年千日の間で少しでも自分を成人させられるよう頑張りたいと思う。(む)