両統領インタビュー

Last Updated on 2022年06月26日 by kasaoka44

みちのとも185年(2022)6月号
(8ページ~23ページ)掲載

両統領インタビュー 立教185年4月20日・第38母屋

教祖百四十年祭三年千日を前に
いま教会長としてすべきこと


真柱様は、今年の「年頭あいさつ」で、4年後の立教189年に教祖百四十年祭を勤める旨を述べられた。これを受けて教会本部では、2月に「教祖百四十年祭準備会議」を設置。4月には同会議のもと「たすけ委員会」を発足させるなど、全教が一手一つに年祭活動に取り組めるよう準備を進めている。

三年千日がスタートする立教186年1月まで、残すところ半年余り。いま、教会長として何をすべきか、また、年祭へ向かう心構えなどについて、宮森与一郎・内統領と中田善亮・表統領に伺った。

表統領 中田善亮
【なかた・ぜんすけ】
内統領 宮森与一郎
【みやもり・よいちろう】

聞き手 もろみちたか
(道友社次長兼編集出版課長・やま大教会長)

聞き手

真柱様は、本年1月4日の年頭のごあいさつで「私は、道を伸展させるためには、いろいろな意味において、教祖の年祭を勤めることは大切なことであると思いますので、次の百四十年祭は勤めさせていただきたいと思っている」とお言葉を下さいました。

私たち教会長は、このお言葉を受けて、どのように通ればいいとお考えでしょうか。

表統領

まずは、お言葉を頂いて、できるだけ早く、どのようにお応えするのがよいかということをしっかりと考えて、そして、それを順序よく進められるように考えていくことです。そういう姿勢をとることが大事だと思います。

教祖年祭へ向かう年祭活動は、全教、全よふぼくが動く時ですが、そこに向かううえで、まず道の先達である教会長が何をすべきか考えることが、いまの段階だと思います。それを考えていくうえで、私は、三つのポイントがあると考えています。

一つ目は、なぜ教祖の年祭を勤めるのか。年祭活動に取り組むうえで根本となる教祖年祭の意義を、教会長として、しっかり心に治めることをしなければいけないと思います。

二つ目は、お預かりしている教会の現状、現在の姿を、しっかり確認・把握することです。陽気ぐらしへの歩みという悠久の時間の流れのなかで、今回の百四十年祭をどう捉えるか。その中で昨年4月に「これからの道の歩み」として、教祖百五十年祭や立教二百年という大きな節目を目指して、長い目で、自分とお預かりする教会の将来の姿を思い描いて、それを実現していけるように順序だてて進んでいこうとお話ししました。百四十年祭は、そうした目標に向かうための一つの節目として捉えることができると思うのです。そのためには、自分のいまの姿、教会の姿を、しっかり確認して把握すること。それをしないことには、目指す姿を頭に描きようがありません。

三つ目は、年祭活動に向けての心構えをつくって準備するということです。厳しく通る覚悟というか、腹を据えるというか、そういう心定めをしていただきたいと思います。どういう心定めをするかを具体的に考える以前に、どうでも三年千日をつとめきる覚悟、心構えをつくっていくことが大事だと思います。教会長に覚悟と心構えがなければ、信者さんには伝わらないと思います。

◆教祖年祭の意義

聞き手

教祖の年祭を勤める意義について、あらためてお聞かせください。

表統領

申すまでもなく、年祭の元一日は明治20年陰暦正月26日、教祖が現身うつしみをおかくしなされたその日が元一日です。この日をお見せくださったおぼしめし、そして、そこにこもる親心、これを子供である私たちがしっかり思案し、胸に治めることが大事です。毎年1月に春の大祭を勤めているわけですが、そのうえ、さらに10年に一度、年祭を勤めることの意義を、しっかりと心に治めたいものです。

年祭の元一日は、50年のひながたの最後の日ということでもありますし、その日に至るまでの、初代真柱様をはじめ当時の先人の方々との問答、これは詳しく教祖伝に記されてありますが、そういったことが信仰の理のうえで、私たちにとって最も大切であり、かつ厳しい部分をお仕込みいただいたと思います。そして、現身をかくされたけれども、姿をかくしただけで、これまで同様、何も変わらず、ご存命でお働きくださるという仰せがありました。当時の方々にとってみれば、これは非常に悲しく、また寂しい出来事であったに違いありません。信じられないようなことだったと思います。

そういった状況は、教祖伝を読ませていただくことで、いまの私たちも味わえるわけですが、その一方で私たちは、現身なく、ご存命でお働きくださる教祖しか知りません。当時の方々の悲しみや苦しみを教祖伝に拝させていただいても、本を閉じれば忘れてしまうのです。これは、私たちや、これから将来にわたってこの道を信仰する人も同じことだと思います。だからこそ、仕切って教祖の年祭活動に取り組んで、ご守護をしっかり頂戴することを通して、ご存命の教祖をより身近に、そしてお導きくださる親心をより温かく感じさせていただくことができると信じるのです。

聞き手

表統領先生は、今年の春季大祭の神殿講話の中で、故人の年祭と教祖の年祭の違いについてふれられていました。

表統領

あの話では、違いを伝えたかったというよりも、時代を経るなかで、教祖年祭と言われてもよく分からないという方がだんだん増えているのではないかと感じていたので、教祖の年祭と故人の年祭は全く違うものだということを確認させてもらったのです。

一般に人間の年祭は、故人の人柄や実績をしのぶためにするものだと思います。教祖の年祭も、当初はそういう一面があったようにも思いますが、現代に至っては、教祖が現身をもってお通りになられていた時代の人は、もう誰もいませんし、お姿を見た人も、お声を聞いた人もいません。だからこそ、10年ごとの年祭で、教祖のひながた、教祖のお姿、教祖のお心をしっかり求めるということをしなければいけない。私たちは、教祖の道から離れてしまったら、お道ではなくなってしまいます。教祖の年祭を勤める意義として、こうした大切さを承知していただきたいと思います。

◆三年千日をどのように通るか

聞き手

来年からの三年千日を、どのように通ればよいとお考えですか。

内統領

おさしづに、

むつかしい事は言わん。難しい事をせいとも、もんかた無き事をせいと言わん。皆一つの道がある。の道を通れんというような事ではどうもならん。 (中略) 五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。わずか千日の道を通れと言うのや。 (中略) どんな者でも、通りの道を通りた事なら、皆同様の理に運ぶ。

(明治22・11・7)

とお示しいただくように、教祖が50年通ってお示しくださったひながたを、私たちは日々、少しずつでも積み重ねていかなければなりません。しかしながら、人間には50年もの間、教祖と同じように通ることは難しいので、時を仕切って3年通れば、教祖のひながたと同じように受け取ってやろうと仰せくださっています。

たった三日の間と仰せられる3年間を精いっぱい通らせてもらう。親というものは、子供にできるかどうか分からない、結果はどうなるか分からないけれども、精いっぱい取り組む姿を見てうれしいと思う。そういう目で私たち子供を見てくださっていると思います。ですから、たった三日やと言われる3年の間だけでも、精いっぱい陽気ぐらしに向かって努力している姿を、教祖にご覧いただいて喜んでもらう。そこに、新たな道の展開というご守護があらわれてくると思います。

そういう意味で、年祭活動は3年を仕切って取り組ませてもらうのが、これまで神様のおさしづを仰いで歩んできた道でありますし、そのうえに立って、次の年祭に当たっても、私たちは同じように3年を仕切って歩ませていただきたいと思うのです。

聞き手

表統領先生は、いかがですか。

表統領

おさしづに、

仕切り根性、仕切り力、仕切り、仕切りの道、どうでもこうでも踏まさにゃならん。

(明治40・5・8)

と教えられるように、仕切って掛かることによって絞り出せるものがあると思うのです。ですから、3年と仕切って、3年間を同じ力でつとめ続けるということが大事だと思います。

そのためには、まず3年続けるという心構えなくして、続けることは難しいと思います。ですから、来年の1月のスタート時に、3年間頑張るぞと決意することが、まず必要になると思います。

聞き手

全教会長がスタートラインを共にして、一手一つに仕切って取りかかることが大事だということですね。

表統領

そこを、はっきりさせていきたいと思います。

◆ひながたを通るとは

聞き手

三年千日を仕切ってひながたを通らせていただくことが大事だということは分かりました。では、私たちがひながたを通るとは、具体的にどういうことでしょうか。

内統領

教祖の50年のひながたの前半は、貧のどん底に落ちきられて親戚・縁者、村方にも理解してもらえない時代。そして後半は、官憲に圧迫されて通られた時代であったといえます。

そういう道を教祖がお通りくだされたのは、誰も知らない親神様の存在とお働き、その真実を皆に分からせるためであり、分かってもらうためには、どんな道も通るというお姿だったと思うのです。だから教祖の年祭といえば、教祖のひながたを通ろうということになるのだけれども、いま私たちにとって大切なことは、自分たちが教祖のように、周囲が分かってくれるまでの努力を精いっぱいできているかを顧みることだと思います。

そのことと、50年の道をお通りくだされ、なおそのうえに定命を25年縮めてまでも、おき込みくだされたことがあります。それはおつとめを勤めることであり、おたすけに励ませてもらうことです。これを、私たちが身をもって行っていくことが大切です。

50年のひながたをたどるということは、教祖と同じ気持ちになって、分からない人に分かってもらえるまで精いっぱい努めさせてもらうということと、教祖が現身をかくされてまでお望みになったことを、なんとか実現できるように励ませてもらうということ、この2点ではないかと思います。

聞き手

このことについて、表統領先生は?

表統領

「ひながたをたどる」とは、お道の中で実によく使われる言葉ですが、考えれば考えるほど、よく分からなくなってくる難しさがあると思うのです。単純に教祖のまねをすればいいということではないでしょうし、まねでなければ、たどるとはどういうことなのか。

いまの時点で私が思いますのは、教祖が何のためにひながたをお残しくだされたのか、その「何のために」をしっかり了解して、教祖に「よし、それでええのや」と言っていただけるような通り方をすることだと捉えています。

つまり、道専務でなければできないということではなく、よふぼくの皆さんが、それぞれ自分の立場において、教祖から「よし」とおっしゃっていただけるようになればいいのです。その答えは皆違うでしょう。だからまず、「ひながたをたどる」とはどういうことかを、めいめいでよく考えてみることが大事だと思います。

とにかく毎日、教祖にお喜びいただこうと、明るく勇んで通ろうと考えて通る。そのための一番の基本は、感謝とご恩報じだと思います。これを全教よふぼくの共通のベースにして、それぞれの立場において、よく考えていただけたらと思います。

内統領

表統領先生がおっしゃったことが基本だと思います。そして、近くから遠くへと働きかけていく。

むらかたはやくにたすけたい
なれどこゝろがわからいで

(四下り目 6)

と教えられるように、近くの人々に一生懸命に働きかけても、結果は、近くのほうが難しいかもしれませんし、花が咲くのは遠くかもしれませんね。でも、お歌に「はやくにたすけたい」と仰せられるように、早く道を伝えなければならないのは「近く」です。つまり、身近な人に向けて道を伝える努力をし続けるところに、すぐに結果は出なくても、遠くで花が咲くというのがお道の理なのかもしれません。聞いてくれない人にお話を聞いてもらう、これをすることが大事だと思います。そう思うので、「身近なところへ」を合言葉にして、年祭活動に取り組むべきではないかと思っています。

神様のご守護の世界は人間には分からないので、実行したからといって、すぐに芽が吹くとは思えません。そうではないケースが多いと思います。その意味では、身近な人たちへ毎日、教祖の教えを伝える努力をし続けることが大切で、そこで芽が吹かなくても、日々の働きを少しでも続けていくところに、どこかで必ず芽が吹くご守護を頂けるのだと思います。

◆節から成人を進める

聞き手

ところで、いまの時旬を考えるうえで、世界で起こる感染症のまんえんや、それによる社会的・経済的困難、あるいは戦争などの大きな事情は無視できません。こうした世界の状況から、親神様・教祖はいま、私たちに何を求めておられると感じていますか?

表統領

いまの事情で考えれば、世界でコロナが発生して、いまだ収まらない状況であったり、あるいは戦争が起こってきたりするなど、世界的規模の事情をお見せいただいているさなかです。

そして、これは結果的には、私たち一人ひとりが何をすべきかということをお教えくださっているように思います。当事者をはじめ、世界にはいろいろな立場、立ち位置の人がいるので、直接的あるいは間接的にも、世界の人がすべて同じことをすればよいということではないと思います。そのうえで、自分がよふぼくとして、今すべきことは何なのかを、しっかりと考えなければならないと思います。

もちろん、直接的なことに力を貸して助けていくのも一つの通り方だと思いますが、私たちはまずよふぼくである、という立場で考えるならば、いま世界には、教祖がお教えくださった「陽気ぐらし」に反する状況が多くあります。私たちには、人類が目指すべき陽気ぐらしという目標があって、そこへ至るために、教えられた真実の教えによって、コロナも戦争もない世を目指していくのだという強い意志を持つことが大事だと思います。

私たちは陽気ぐらしを目指すのだ。これが実現すれば、感染症の広がりや戦争はなくなるのだ。教祖が教えられた、陽気ぐらしへ真っすぐに進むひながたの道があるのだから、これをしっかりたどらせていただく。そのためのたすけ一条、つとめ一条の道を、しっかりと歩ませていただく。この基本をしっかり実践する人が増えていかなくてはいけないので、御教え通りのことをしっかりと実行しながら、一緒に陽気ぐらしを目指す人が増えていくように努力するのです。そして、これが結果として、教会がにぎやかになることでもあるので、それぞれの教会がそれを目指して、すべきこと、できることをしっかりと果たし、神様にお受け取りいただき、お勇みいただいて、おたすけのご守護を頂戴していく。この順序をしっかりつとめていこうという気持ちが、まず求められていると思います。

聞き手

内統領先生は、どうお考えでしょうか。

内統領

世界的な感染症や戦争が、なぜ起こるのか。神様の思召があって起こることなのでしょうが、これを具体的に、神様が私たちに何を望まれて、私たちはどう動いたらいいのかを考えていくことは、非常に難しいですね。

ただ、争いごとというものは皆、自分たちの主張というか、自分は正しいと思っていることを主張し合うことが元になっています。そういう自分の主張を通したいという心が、神様の思召に沿っていないのではないかと思います。

それは大きな戦争だけでなく、もっと小さなところ、会社あるいは地域社会、家庭内では夫婦、親子、嫁姑などの間柄にあっても、自分のほうが正しくて相手が間違っているという心の使い方がだんだん大きくなれば、世界的な争いになっていくのだと思います。だから私たちよふぼくは、いつもどういう心でいるべきなのか思案することが大事だと思います。

聞き手

こうした世界の状況を、年祭の時旬に重ね合わせて捉えていくことも必要ではないかと思います。年祭活動に向かうに当たって、皆が共有すべき意識とはどのようなものでしょうか。

表統領

いまは、お道全体が動くべき時だと思います。

戦争など教外の事情だけでなく、教内にもいろいろ大きな事情があります。かんろだいの節、真柱様のご身上。教会のお返しは、本部から声を掛けたもので、自然発生的なものではないけれども、そうせざるを得ない状況であることを明らかに見せていただいた。そこには私たちの及ばなかったところがあると、はっきり分かったと思うのです。そこに、このたびの世界の事情が重なってきた。私自身は、親神様の「これでもまだ分からないか。腰を上げろ」というお急き込みを感じますし、そうでなければならないと思っています。

世の中にも、個々人に目を凝らせば、本当に困っている人がたくさんおられて、その人たちのおたすけにお道のわれわれが対応できているかというと、まだまだ届かないところがたくさんあります。もちろん、世の中のすべての困っている人に一人で対応することは不可能です。だからこそ、皆で協力し合い、お道全体で対応して、一人でも多くの人に、たすかりのご守護を頂戴してもらえるように努力することが必要な時代でしょう。その点は、年祭活動という旬に立て合って、お道の力の入れどころとして大きな課題を頂いているように思います。

◆教会の目指す姿

聞き手

これから年祭活動に取り組むに当たって、教会として目指すべき姿とはどのようなものでしょうか。

内統領

お道は、どんなことでも神様に〝こうさせていただきたい〟と「願い出る」世界だと思います。ですから教会も、自分たちがお道を通るうえでおどう様を頂戴して、教会にならせていただきたいと願い出るのです。それを「心定め」というと思います。だから教会に限定すれば、願い出たからには、それをお許しくだされた神様のほうからも、「そう言うのなら」というお心があるのでしょう。この意識を、代を重ねても持ち続けていかなければならないのです。

ところが、いまは逆になっていて、「生まれた所が教会」という感覚になってしまい、お道を通ることも、「そう言われたから」という感覚に変わってしまっている。この点に気をつけなければならないと思います。

お道の教会とは本来、教祖のひながたをたどる場所なので、それなりの苦労があるでしょうし、世の中とは違う歩み方があります。しかし、それが楽しみに感じられるときがあります。なかなか喜べない日のほうが多いかもしれないけれども、何かの時々に、「ああ」と、普通の人では味わえない喜びを感じられるのが、お道の教会ではないでしょうか。

たとえば教会長なら、月次祭に初めて来た知らない人が後ろのほうに座っていて、「この人、誰やろう?」と思ったときのうれしさとか、初めておぢばへお連れした人の初席の願書を受付に出すときのうれしさとか。ほかにも、いろいろありますが、私たちは、そういった世の中の人では味わえないような喜びを味わわせてもらえる道であるということを、しっかりと認識する必要があると思います。

聞き手

表統領先生は、いかがですか?

表統領

考え方としては、いろいろあると思います。たとえば、姿形のことを言うのか。メンバーは変わらないながらも、皆の目の色が変わるようなことを考えるのか。いまの段階はこうだから、もう少しこうなろうとか。教会によっては、信者さんの中に商売をしている人が多いとか、農業をしている人が多いとか、それぞれ教会の色合いがありますし、地域性もあるでしょう。周囲の状況から、こういう教会であれば周りの人たちも喜んでくれるだろう、というのも一つの考え方だと思います。そうしたいろいろな条件にかんがみて考えていくことが必要ではないでしょうか。

教会がにぎやかになる、人が増えるということは、教会が目指すべき姿の一つだと思います。おつとめ奉仕者を増やすという以前に、いまだおつとめには出られないけれども、教会に出入りしてくれるようになり、やがて月次祭にも参拝してくれるようになり、おぢば帰りをして別席を運んでくれるようになる。そこから、おつとめ奉仕を勤めてくれるようになる。もちろん、時を逸しないように最初からおつとめを勤めてもらうという考え方もあるでしょうが、教会には教会長、教人、よふぼくのほかに、見物人のような人も出入りするという〝敷居の低い教会〟を目指していかなければならないと、私は思っています。

天理教の教会は、いわば生活密着型だと思います。聖職者や修行者のみが住んでいる場所ではありません。身上の人が多かったり、教会そのものが事情になっていたり、世の中の人が「天理教の信者なのに、なぜこんなことをするのだろう」と思われることもあるけれども、本当は「こんなことをする人だから、お道の教えで更生しなさいよ」と、神様がたすけるために引き寄せてくださる場所が天理教の教会ですから、昔から、いろいろと難儀している人を受け入れているのです。だから本来、敷居を低くすることができるのです。

たとえば、「こども食堂」を始めようとすると、教会関係者の中でも「そんなことをしてどうするの、福祉をしたいの?」と言う人がいますが、そうではないと思います。実際にやっている人の声を聞けば、すぐに分かりますが、子供をきっかけに、親御さんをはじめとする大人や、地域のさまざまな方が教会にやって来るようになったり、地域からも教会の存在が認められるようになったりして、お道を広めるうえでプラスになることが多いという声がほとんどです。

やはり、前へ進んでいくには、何か事を起こさなければいけない。それは福祉活動をしようという意味ではなく、教会に多くの人が来てくれるように、また地域に必要な存在になるために、何かしらアクションを起こさなければならないということです。これからの教会は、自分たちだけで朝夕のおつとめを勤めて、月に一回、月次祭を勤めているというだけでは、伸展はないように思うのです。

それから、もう一つ。このたびの教会のお返しということを含めて、いまのお道の状況は、教会は末代、信仰は末代、道は末代ということを、あらためて考える機会を与えていただいていると思います。ですが教内には、そのように受けとめる意識は、まだ低いように感じます。そこには、自分の代の範囲でしか教会のことを考えてこなかったという面があるからでしょう。

そうではなくて、「末代」という意識でなければ、陽気ぐらしには届かないのです。神様がご覧になっているのは、私たちの一生よりも長い何百年、何千年の道です。これを私たち人間の力でつないでいくのは並大抵なことではありませんが、陽気ぐらしへの道を教えていただいているのですから、まずは道の先達である教会長が「末代」という意識をしっかり持たなければならない。そうした意識のもとに、考えて導き出される教会の姿というものが必要だと思います。

聞き手

お道の教会は、敷居の低い開かれた教会であるべきということですが、まさに今回の年祭活動が、そこに立ち返るチャンスであるように思います。

表統領

それと、教会の目指す姿ということですが、一教会としての理想の教会とは、どんな姿なのかと考えたときに、実はどんな姿なのか想像もつかないということはないでしょうか。

おつとめも交代して完璧にできます。にをいがけにも皆出るし、おたすけも皆するし、おさづけは全員抵抗なくさせてもらえている。何かあれば、お願いづとめを勤めて、人もよく出入りして、少年会もあり、青年会には若い人が集まり、高齢の方も自分の役割を果たしてくれるというような教会になろうと思われているのなら、いずれ全教会が大教会になっているでしょう。

大教会は、いろいろな教会の集合体でもあるから、すべてできるようになっているのであって、一教会であらゆることができるというのは、現実的に少し違うのではないかと思います。ですから、理想の教会とはどんな教会かというと、実は考えつかないということになってしまうのです。

聞き手

皆、それが知りたいのだと思います。

表統領

理想の教会の姿は、私たちのいまの段階では分からないかもしれませんが、それはあるはずです。なぜならば、親神様・教祖には、意中の教会の姿というものが必ずあるからです。仮に、その理想の姿があって、それが100点だとしたときに、「では、いまのあなたの教会は何点?」と尋ねられて「98点」と答える人は、たぶんいないと思います。皆もっと遠慮して答えて、たとえば「いまは20点です」と答えた教会が、いきなりこれから100点を目指すというのは無理というものです。ならば、20点から30点、35点へと目指していくほうがいいと思います。でも、30点になろうと思ったら、いっぺんに30点になるのは無理で、まずは21点にならないといけない。けれども油断していると、19点や15点に下がってしまうこともあるわけですから、いまはお互い教会長として、せめて30点を思い描いてみて、それはどんな姿なのかを考えていただきたいと思うのです。

聞き手

たとえば、おさづけを皆が取り次ぐ教会になろう。これがプラス5点とか、そういうことでしょうか。

表統領

そうですね。採点基準は自分で決めればいいと思います。

皆、漠然と100点を目指しているのではないでしょうか。100点の姿がちゃんと描けていないのに、なんとなく言われるがままに100点を目指している。何が100点なのか分からないのに、これをやったら100点になるだろうと、なんとなくやっている。これは結果的に、自分から100点を目指しているとは言えなくなる。言われて、そういうものだと思い込んでいる。そんな意識なのに、いつの間にか〝分からない完璧〟を目指している。だから、しんどくなってしまうのだと思います。もっと勇めるような材料を考えてみたらどうかと思います。私たちは、まだまだそんな段階だと思うのです。

聞き手

それでは努力していることの結果が、いつまでも見えてこない、報われないというつらさがありますね。

表統領

いえ実は、すでにたくさんご守護を見せていただいているけれども、自分が期待しているところに見せてもらえないから、喜びが薄いのではないでしょうか。そんなもったいない気持ちになってしまっている人が少なくないと思います。

◆いま教会長としてすべきこと

聞き手

いよいよ来年からスタートする年祭活動に向けての心構え、そして、いま教会長としてすべきことについて、あらためてお考えをお聞かせいただければと思います。

内統領

おさしづに、

国々それ名称々々の理を下ろし、言えば道の辻々ともいう。

(明治30・2・1)

と聞かせていただきます。「辻々」というのは「曲がり角」のことと言えます。それは、人生の曲がり角でもあるでしょうし、おぢばへ導いていく曲がり角でもあると思います。すなわち、人々をおぢばへ導いていく曲がり角、いわば道しるべ、そういうものがお道の教会だと思うのです。

そうであるならば、いろいろな方をおぢばへ、「こちらですよ」と導いていくのが教会長の務めではないかと思いますので、教祖の年祭に向かっては、教会長として、にをいがけ・おたすけに励むことはもちろんですが、意識の中に、おぢばへ、教祖の思いに近づくことができるように教え導いていく。そういう自覚をしっかりと持たなければならないときではないかと思います。つまり、教会長一人ひとりが、年祭活動を前に「今年をどう通るのか」「三年千日をどう通るのか」ということをしっかりと自覚していかなければならないのが、いまの段階だと思います。

それと、人というものは、自分が目にしたものに対して、その理由を尋ねたくなるという面があると思います。

教会長が何かを自分で心に決めて、これをやらせてもらおうと思って実行する。その姿を見た人が、「この人はなぜ、これをしているのか」と不思議に思えば、自然に尋ねてきます。ですから、人から「尋ねてもらえるようになる」、ここが大事だと思うのです。

「教祖の年祭はこうだ。いまはこれをしなくちゃいけないんだ」と説くよりも、むしろ自分がやっているいろいろな心定めを周りの人が見て、「なぜ、それをやっているんですか?」と尋ねてもらえるような姿になることが大事だと思います。

だから、信者さんや未信仰の方が「あら?」と思うような心定め、それは大きなことでなくてもいいので、「毎日、なんかやってはるなあ」という、その何か。そういう実行・実践に、三年千日が始まる前、いまから掛かっていく。三年千日に入ったころには、周りの人から「会長さん、毎日何をやっているんですか?」「なぜ、それをやっているんですか?」と尋ねてもらえるような行動に掛かっていくことが大切ではないかと思います。

聞き手

表統領先生は、いかがですか?

表統領

最初に話したように、教祖百四十年祭の年祭活動は来年1月に始まるので、その時できるだけ多くの人が、仕切りの良いスタートができるように、今年のうちに準備しなければならないと思います。これは本部としての思いでありますし、これを教会長の皆さま方によく理解してもらって、立場をしっかり全うしていただきたいと思います。

先ほど申しました通り、教会に集い、道を通り、陽気ぐらしを目指し、難儀している人を神様にたすけていただいて、道の仲間を増やしていくことを、いましっかりと考えないといけません。実際に、信仰する人が減っているのが現状ですから、おつとめの手をそろえさせてもらうのも、いっぺんには難しい。一人ずつ増やしていかなければなりません。

おつとめの手を増やすと言うと、しんどくなることもあるでしょう。それは結果の姿ですから、段階を追っていくことです。教えを理解し、お道を一緒に通る人、つまり信仰しようという大人や子供、またそういうことを少しでも自覚できる人を、一人でも二人でも増やしていくということです。そのようなことから始めなければならないので、いまはその準備段階です。

だから、教会長さん方には、まず教祖の年祭の理というものをしっかり心に治めて、来年1月から年祭活動をスタートする際、信者さんから「教祖の年祭って何ですか?」「三年千日の活動って何をするんですか?」と尋ねられたときに、きちんと答えられるようになっていてほしいと思います。

当然、今回初めて教祖年祭を目指してつとめる会長さんもいますし、それぞれ年齢も違うと思います。ですから、その年代や経験に応じて捉え方は変わってくると思いますが、若い人は、やってみて失敗して学ぶこともありますし、年齢を重ねていくなかで分かってくることもある。けれども、分かってきたときには、もう体が思うように動かないということもあるでしょう。若いときには年配の人の経験を教えてもらわないといけないし、年を取ってきたら若い人たちの力を借りなければならない。つまり、お道は「一手一つ」が大事だということです。世代を超えて教会が一手一つになること。そして、皆が目指す教会の姿のイメージを共有して、「こうなっていこう」と談じ合って、お互い口に出して進んでいけるようになれば大変心強いと思うのです。

とにかく、三年千日を仕切って、しっかりと心を定めて通りきる。そして、何のためにこれをするのか、3年ったら自分はどうなりたいのかという思いをしっかり持って、教会長が役目を全うしていくための準備を、今、してもらいたいと思います。