*引用文の末尾に「(出典)」の記載がないところは、出典を確かめることができないため、編者が文字お越ししたもの。 【司会:佐藤真孝】 始めに、大教会長様が真柱様の年頭のごあいさつをご代読くださいます。それに引き続きまして、大教会長様の年頭のご挨拶を頂戴いたします。 【真柱年頭のごあいさつ】 今、司会からもございましたように、1月4日にお聴かせいただきました真柱様の年頭のごあいさつを読ませていただきます。 (『みちとも』より引用) 明けましておめでとうございます。昨年は、いろいろとご苦労さまでした。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の暮れは、私には珍しく、新年の準備も順調に終わりまして、例年よりもゆったりとした気持ちで新年を迎えたのでありますが、元日早々、大地震という大変な姿を見せられてしまったのであります。この中には、強い揺れを経験した人もあれば、部内教会、布教所、信者が被災したけれども、すぐに駆けつけることもできず、心配なまま、ここに集まってきたという人もいるでしょう。心よりお見舞い申したいと思います。 地震について言えば、おふでさきでは、天災を月日の残念、立腹と仰せられているのはご承知のところでしょう。それは、教祖の教えを信じ教祖の道を通らせていただくお互いの、心の成人の鈍さに対する厳しいお仕込みであると思うのであります。 年祭活動の二年目を迎えました。厳しいお仕込みに対し、どの点をお知らせくだされているのか、いろいろと振り返り、思案して、気づいたところがあれば改めて、歩みを進めることだと思うのであります。 教祖百四十年祭は、私は前回の年祭に倣って、一月二十六日、一日に勤めさせていただきたいと思っています。再来年の一月二十六日は、その年祭の当日、一つのゴールであります。しかし、その日に何かするのではなく、その日を目指してつとめ励んで、どれだけ成人することができたかをご覧いただくところに意味があるのであります。この三年千日の歩み方が大切であります。 三年千日は、立教立教一八九年一月二十六日のための準備期間ではなく、もうすでに本番であります。普段よりひながたを強く意識して毎日を通る。昔から、非常時と言われますが、普段とは違う緊張感を持って歩む時であって、いまは何をしなければならない旬であるか、各人の立場で何をしなければならないかを見失わずに、年祭への活動を着実に進めていかなければならないと思うのであります。 こういう大ごとが起こったのでありますから、なかには心が倒れてしまった人、気持ちはあるが動こうにも動くことができない人がいるのは、当然のことであります。そこは、上級の教会長など、関わる人がしっかり心を通わせて、一日も早く立ち直るご守護を頂けるようにつとめてくださるようお願いしたいと思います。 また、年祭へ向かって歩もうという、その気持ちを持って歩む人を一人でもご守護いただく、そのための丹精もしっかり進めていただきたいと思うのであります。 最後に、これはお知らせでありますが、父の年祭を、今年、出直して十年になりますので、十年祭を、命日である六月二十四日に勤めさせていただきたいということを最後にお知らせして、年頭のあいさつを終えさせていただきたいと思います。 どうぞ、本年もよろしくお願いします。 (『みちとも』R187・2) 文章を、ごあいさつをそのまま代読させていただきましたので、「父」と申しましたのは「三代真柱様」の十年祭のことであります。 【大教会長様年頭の挨拶】 あらためまして、立教187年、あけましておめでとうございます。 昨年は、教祖140年祭に向かう年祭活動期間1年目の年として、大教会で定めさせていただいた、「つながろう、おやさまのお心に。つなげよう、信仰の喜びを。」の活動方針と、「ひながたを学び、そのお心を実践しよう。」の活動目標のもと、それぞれの教会でも、目標と実践項目を定めていただき、この1年間の成人の歩みをお進めいただきました。 昨年1年、それぞれの持ち場・立場で精一杯お努めくださり、誠にありがとうございました。 ただ今、読ませていただいた真柱様のお言葉のなかで、まずひとつ私が一番大切だなと思ったことについて、お話しさせていただきたいと思います。 それは、年祭当日に何かするのではなく、その日を目指してつとめ励んで、どれだけ成人することができたかをご覧いただくところに意味がある。この三年千日の歩み方が大切であるということ。そして、三年千日は、立教一八九年一月二十六日のための準備期間ではなく、すでに本番であるということ。普段よりひながたを強く意識して毎日を通る。普段とは違う緊張感を持って歩む時であって、いまは何をしなければならない旬であるか、その各人の立場で何をしなければならないのか、それを見失わずに、年祭への活動を着実に進めていかなければならないとお話しくだされた部分です。 もうすでに、方針・目標は決まり、そして、それぞれの教会でも目標・実践項目を定めていただいております。 年祭活動1年目を終えて、あらためて2年目が始まるに当たり、あらためて、この2年目、どのように、それぞれの教会の目標・実践項目を、そのまま継続していくのか、それとも、あらためて、変更するのかってことを、昨年、皆さま方にお尋ねさせていただいて、それぞれ、すでに決めていただいて、その目標・実践項目を提出いただいているうえでありますが、あらためて、この1年間、どのようにお通りいただくかということで、私の方で思いますところを、この年祭活動三年千日の通り方というのは、すでに昨年1月にいろいろとお話をさせていただきました。そのうえで、あらためて思うことは、今、お互いに与えていただいている持ち場・立場での、相応しいその振る舞い・あり方というものが、どういったものであるのか、それを、あらためて問い直して、問い続けて、1年どのように通るのかを、定めていっていただきたい、そのように思わせていただきます。 あらためて、自分自身が与えられている、その立場、教会長という立場、家庭であれば子供の親であったり、奥さんの旦那さんであったり、いろんな立場があるかと思いますが、それぞれの立場に応じて、親神様・教祖がお喜びくだされるその相応しい振る舞い・行いというのは、一体どういうことなのかということを、あらためて、思案していただきたいと思います。 その思案し続ける1年にしていただきたいと思います。 そのうえで思いますことは、それぞれの持ち場・立場で何が相応しいのか、何をするべきなのかというのは、違ってくるかと思います。 教会であれば、教会がどのような場所にあるのか、回りにどのような人が住んでいるのか、繋がる信者さんはどんな方がおられるのか、それによって、自分自身だけで為すことなのか、それとも、教会に繋がる方を巻き込んで何かを為すのか、そういったことも違ってくる。 それぞれ、本当に、何をすべきか、何を為すのかというのは、違ってくるかと思います。ですが、その何をするのかの根本になる、それぞれの心というものは、私は、同じになってくるんじゃないかと思うんです。 親神様・教祖にお喜びいただける、受け取っていただける心でおつとめいただきたいと思います。 教祖のお言葉に 何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。 (篇 65) また、 塵一つ拾うても誠。大きな木取り片づけても真実といえん事もある。・・・心の持ち方、思い方が大事やで。(教祖口伝 明8・6・14) というお言葉があります。 それぞれ、ご自分の与えられた今の立場で、何を、何が相応しいとか、それをしっかりと思案し、思案し続けながら、しっかりと、その相応しい行いを積み重ねていく。そういった1年間にさせていただきたいと、そのように思います。 そのなかで、昨年も申しましたが、この年祭活動、ひながたを学び、そのお心を実践し、笠岡に繋がる全員に、年祭活動として動いていただきたいという旨のお話をさせていただきました。 教会のようぼく・信者だけではなく、こどもたちにも「年祭活動の風」というものを感じてほしいんだということもお話ししました。 そのうえで、昨年の秋季大祭で真柱様はこのように仰っておられます。 教祖は、50年もの間、どんなことが起こっても諦めることなく、丹精し続けられたということを、これもひながたとして忘れてはならないことなのではないかと思うのであります。 どんなことが起こっても諦めることなく、丹精し続けられた、そのひながたをわれわれも忘れずに、この笠岡大教会に繋がる、それぞれの教会に繋がるようぼく・信者の皆さま方一人ひとりに、しっかりと、この年祭活動を少しでも実践してもらえるように声掛けを継続していただきたいと思います。 昨年1年間、年祭活動1年目を送るなかで様々なことが起こってまいりました。昨年のこの場で、たすけの旬であるこの年祭活動期間にはいろんなことが起こってくるだろうというお話も、私自身させていただきましたが、本当に、普段以上のいろいろなことをお見せいただきました。 そのなかで私自身、どうしても「つらいな。しんどいな。」と感じてしまう出来事もありました。特に、年祭活動期間に入ってからは、人の出直であったり、身上・事情ということをよく耳にしました。 ですが、そのたびに、あらためて思わせていただくのは、どんなことを目にしても、どんなことを耳にしても、そこには、必ず、「陽気ぐらしをさせてやりたい。たすけてやりたい。心の成人をさしてやりたい。」という親心、をやの思いが、必ず、そこにあるんだということ、そのことをわれわれは忘れずに、特に「つらいな。しんどいな。」と思うときこそ、忘れがちになってしまう、このをやの思いというものをしっかりと見つめて、ふしのなかにある喜び・感謝を見つめて通らせていただく、そんな1年にもさせていただきたいと、あらためて、思わせていただきます。 年祭活動2年目を通らせていただくに当たり、思いますところをお話しさせていただきました。 最後にいくつかお伝えしておきたいことがございますので、お話しさせていただきます。 まず、来月・再来月の2月・3月の部内巡教に関して、このたびの、年祭活動2年目の、この部内巡教は、巡教員に、それぞれの教会で定めた目標と実践項目、それをしっかりと把握というか、知ってもらったうえで、巡教を行っていただくようにお願いをさせていただきます。 そうですので、祭典終わった後の巡教員の話のなかで、そのそれぞれの教会の目標と実践項目についてしっかりと触れていただくようにお願いをさせていただきます。 ですので、その面で、それが1点と、それぞれの教会によって、教会の様子というのは、まだまだ違ってきているかなと思います。コロナ禍が昨年の5月にコロナの扱いが変わって一段落したところではありますが、祭典後の食事であったり、そういったことが、まだ、教会によってそれぞれかと思いますので、そこをどうするかということは、巡教員と事前にご相談いただいて、巡教を受けていただきたいと思います。 目標・実践項目を巡教員が講話、話のなかで触れさせてもらいますと、その内容について、もし、事前に相談していただくことが、もし、ございましたら、あらかじめ、巡教員とその相談をしていただきますようにお願いをいたします。 それと、昨年、年祭活動期間の本部からの打ち出しとして、ようぼく一斉活動日の第1回目が開催されました。2回目・3回目が今年、2年目にございます。 その開催の日であったり、その内容というのは、それぞれのお住まいの支部によって変わってくるかと思います。 1点、私がこのようぼく一斉活動日について、あらためてお願いしたいこと、それは、このようぼく一斉活動日を、この時旬にご本部から、おぢばからの声だとして受け止めて、まず、積極的にご参加いただきたいということ。もちろん、教会に繋がるようぼくの方にお声掛けいただきたいと思いますが、まず、教会長さん・布教所長さんご本人が、積極的にしっかりと参加していただきたいということと、どのような思いでそれに参加するのか、受け止め方が大事だと思わせていただきます。 このようぼく一斉活動日、内容はそれぞれかと思いますが、これに参加して何を持って帰らせてもらうのか、どんな喜びを見つけて自らの日々の信仰生活に映していくのか、そこをしっかりと受け止めさしてもらう心でご参加いただきたいということをお願いさせていただきたいと思います。 この後、「教会長夫妻おたすけ推進の集い」が開催さしていただきます。 笠岡は、対象を布教所長さんまで拡げておりますので、「おたすけ推進の集い」という言い方に変えさせていただいております。 この年祭活動、それぞれの教会長という立場、教会長夫人という立場、また布教所長という立場で、どういったことを角目にお通りいただくかの思案をいただく、その助けになるかと思います。 「日々のにをいがけ。積極的なおたすけ。ぢばの理をいただく」、この3つの項目で、それぞれお話をいただくことになっております。 また、司会からの案内もあるかと思いますが、それぞれ聴いていただいた内容を、その時間内で、どんな感想を持ったのかということを共有しあう、そんな時間も設けております。 しっかりと、お聴き取りいただいて、ご自身の立場での思案を進めるうえでの一助としていただければと思います。 あらためまして、年祭活動2年目を通らしていただくに当たって、私の思いますところをお話しさせていただきました。 この時旬に、それぞれのお立場で何をすべきか、それを、あらためて思案し続けていただいて、私自身も、思案し続けさしていただいて、自分の立場に相応しいその行い、親神様・教祖にお喜びいただける相応しい在り方ができるように、お互いに勇ませあって、この年祭活動2年目をお通りいただきますように、どうぞ、よろしくお願いいたします。 ご静聴ありがとうございました。